<雨ニフラレテ鈴ノサト>
二年前は遅すぎた。
そう、一昨年の6月に仲良しのガールフレンドを亡くした時、彼女の旦那が涙ながらに私に語ってくれたのだった。
「病院のベッドで彼女が言ってたんですよ、タッちゃんがもうすぐスズランの花を持ってきてくれるんだって。」
「へっ? そんなこと一度も約束してませんよ。入院してから一度も会っていないのに。でも、なぜか5月頃にスズランの香りが脳裏を過ぎって病室に持っていってあげたいなという気持ちになったのは確かです。」
「じゃあ、その気持ちが通じたんだね。
だって、いつもタッちゃんのことばかり話していて、あなたのことが大好きなひとだったから。」
そう言った後再び涙した二人のおじさんだった。
62歳という年齢でこの世を去るには今や早すぎる嫌いがある。
妻を亡くした夫にしても弟のようだった私にとってもまだまだ一緒に過ごしたい人であったのに。
そんな病室での話を聞いた翌日には山梨県の芦川村にバイクを走らせていた。
少しでもいいスズランが咲いていたらその香りを彼女の元に届けたい。
しかし、6月の初旬にして芦川村のスズランはすでに無く、辛うじてスズランのお香を一本だけ棺の中の枕元に添えたのだった。
参列した人々の中でも一二を競う大男二人がスズランのお香を手にオイオイ泣き競っていた。
傍目には一体どういう関係に映ったであろう。
スズランの花の時期に遅すぎたことが悔しくてならず、翌日はもっと北にある南アルプスの入笠山にバイクを走らせた。
湿原の先にある山の斜面にはスズランが群生していた。
時期こそ少し過ぎてはいたがちらほらと小さな白い鈴が風にふるえていた。
斜面の一番上に居ると吹き上げてくる風に乗ってすべての鈴の香りが集まってくる。
芳しい香りが鼻腔に広がり胸一杯に満ちあふれるひとときだった。
この香りを届けたいという気持ちが通じたのなら、この場で至福の香りを心の中に満たせば彼女に通じるはずだ。
素晴らしい香りを胸一杯にして心のハイパーステーションから黄泉の国の彼女の元へテレポートすべく念を凝らしたのだった。
そして帰り際、林道の行く手にそれは現れた。
淡い紫色のレース模様としか表現できないチョウがヒラヒラと飛んできて私の周りを纏わり付くように舞い、一瞬ハンドルを握る手の甲にとまって目が合うとニコッと微笑んでさっと空高く飛び去っていった。
本当にそのときはニコッと微笑んだように見えたのだから仕方がない。
あれは決してオオムラサキではなかった。
あの模様あの色は図鑑や写真で見るオオムラサキのそれとは異なるモノだった。
見たことの無いようなチョウとしか言いようが無い。
その後、彼女の家を訪ねたとき遺影の横の壁に掛けてある紫色のレースのドレスを見てすべてを悟った。
そのドレスは生前の彼女のお気に入りだったとのこと。
そして、あの入笠山でのチョウは彼女自身がそのドレスを着てスズランの香りを私と一緒に楽しんだのだ。
やはりニコッと微笑んだチョウの顔は私の見間違いではなかった。
二年経って良い頃合いだろうと五月の末にあかべこGSにアルミの巨大岡持ケースを付けてひた走った。藤野の山間にはエンジュの花が白い房で垂れている。
一週間前には藤の花房があちこちで垂れ、桐の花穂が空に向かって立ち並んでいた。
また椚の白い花房が甘い香りを漂わせていたのだが、今の時期週替わりで花の景色が面白いほど変化する。
特に藤野の山々は萌葱色から山桜の淡いピンク、桃の花の濃いピンクから山ツツジの赤紫、マンサクの黄色、そして藤や桐の紫から椚やエンジュの白とめまぐるしく山の色が変化する。
甲州街道を走るのも時間がかかるからと上野原から甲府昭和まで中央道を使ったのだが、甲府盆地に入った頃から雨模様になってしまった。
派手なバイクで走っていると兎角注目を浴びてしまう。
しかし、途中のSAで注目されたのはバイクよりもその巨大なアルミ岡持ケース三点セットだった。
サイド45リッター×2個とトップ40リッターのピカピカアルミは一般の人にとっては高級中華そばの出前持ちにしか見えないのだろう。
だが、雨には強い。それが証拠に雨具を着込んだ私の体が下着まで濡れているのに、アルミのケースの中は全く濡れていない。これって使い古した雨具が役立ってないのかもしれない。
甲州街道を富士見まで行き、そこから入笠山に向けて登っていった。
1500メートルを過ぎる頃、下界の雨模様が嘘のように消え眼下に雲海が広がっていた。
見渡すと白い雲の海に八ヶ岳の峰峰が島のようにぽっかり浮かんで見えた。
目指す入笠山湿原に通じる道には厚く砂利が敷き詰めてあり、ハンドルを取られて進むのに難渋した。
やがて湿原を見渡せる場所にたどり着き、目当てのスズランの群生がある斜面を見遣ったのだが、何と茶色い地肌が広がっているだけで何も無い。
クリンソウや水芭蕉が咲いている筈だったのがこれはまた時期遅くすでに終わっていたのだった。
つまりは全く花の無い時期に来てしまった訳だ。
近くの茶店のおばちゃん曰く、「今年は花の時期が読めなくてねえ。今ちょうど何にも無い時なのよネエ。残念だったね。」
「ハア・・、せっかく来たのになあ、しょうがないから寝よっと。」
早朝4時に起きて走ってきただけに、8時過ぎには猛烈な睡魔が襲ってきた。
岡持ケースに入れてあったシュラーフを枕に水芭蕉にもスズランにも振られた男は寂しく野原に寝ころんであっと言う間に夢の世界へと旅立った。
・・・何やら顔に冷たいものが・・・雨だった。
一時間近く微睡んだ時、1955メートルの山頂付近は雲の中に入ってしまったようだ。
雨にも降られた男はやむなくモソモソと起きあがり、ずりずりとハンドルを取られながらスズランの見える筈だった湿原を後にした。
ふと見ると見覚えのある出で立ちのライダーが手を振っている。
インターネットのサイト上に入笠山に来る旨書き込んでおいたのを見て来たらしい。
するともう一台仲間らしきバイクが置いてあった。
しばらく待つうちに持ち主が現れスズラン目当ての男が三人揃ってしまった。
だが咲いていないのは仕方がない。
一同記念写真に収まってさっさと下山してしまった。
いつもの蕎麦街道を通っていつもの蕎麦屋で蕎麦を食べ、出ようとすると空は青く輝いていた。
ならば以前のように芦川村に行ってみよう。
あそこならスズランが咲いているかもしれない。
そんな期待に胸を蕎麦で腹を膨らませ一路甲府南から上九一色村に向かった。
だがしかし青空は付いて来てはくれなかった。
芦川村に入る頃から二度か三度目の雨が降り出し、スズラン群生地の遥か手前で猛烈な雨足となってしまった。
雨宿りする所も無く彷徨いていると案内地図に峠の道端に「リョウメンヒノキ」なる巨木があるのが目に入った。
雨が目に入っても気にならないが巨木となると居ても立っても居られない。
どしゃ降りの雨の中を峠目指して駆け登った。
それらしいがどうも疑わしいヒノキを見つけてバイクを停め辺りを見回すと「リョウメンヒノキ」と書いた指示板が道端に寝転がっている。
その倒れた指示板の先にはどうってことのない普通のヒノキが立っている。
その奥には葛籠折れの細い山径がずっと山頂に向かって続いている。
目の前のヒノキは余りにも当たり前の若木だから指示板は奥の山径を指しているのだと勝手に解釈して足を踏み入れた。
鬱蒼と繁る木々の梢に遮られて日の光は届かないが流石の雨も地上まで届かなかった。
かなり急坂の葛籠折れを息を切らしながら登る。
やはりさっきのヒノキが「リョウメンヒノキ」なのかと何度も引き返す判断材料とすべく立ち止まるのだが、いやここまで登ってきたのだから峠まで登ってみようという心の中の天使と悪魔が互いに囁き合っていた。
登ろうというのと引き返そうというのがあってどっちが天使か悪魔か考え倦んでいるうちに峠にたどり着いた。と、そこにはヒノキとも何とも判断に苦しむ巨木が佇んでいたのだ。
ヒノキのようでヒノキでない、コノテガシワのようでコノテガシワでない、永く樹種不明ということで「ナンジャモンジャ」と呼ばれてきたその木は結局牧野富太郎博士によってヒノキの変種であり、「リョウメンヒノキ」と名付けられたのだそうな。
先の道端のヒノキに比べて何と変哲だらけの木であることよ。
普段周囲から変人だと言われている自分にとって妙に親しみの湧く木であった。
同類相憐れむとか・・・。
天使の誘いによって楽々と下山したのだが、バイクで走る行く手には悪魔の滴りが冷たく落ちてきていた。朝霧高原から富士スカイラインに抜ける辺りでは大粒の滴がバイザーを白く曇らし、袖や襟足から染み込んできた悪魔のような冷たさで全身が震えていた。
本当にフラレ続けた一日だった。
<雨ニモ負ケズ鈴ノ香ニ酔ウ>
一週間経った。
テレビの情報では芦川村のスズランが咲いているという。
急遽インターネットのサイトに呼びかけて海老名で待った。
今度は別の顔が二つやってきた。
雨の心配があったが朝の時点では曇り状態だったので一応雨具を準備しての走り出しだった。
御殿場まで一気に走り富士スカイラインに入る頃雨よりも寒さに負けてしまい雨具を防寒具として着込んでしまった。
そして朝霧高原では案の定雨の中の行軍となった。
途中で濡れた装束のまま蕎麦を掻き込みいそいそと走り出すが、精進湖から上九一色のトンネルを抜けるとそれまでの冷たい雨は去り、柔らかな温もりのある空気の中芦川村へと入っていった。
村あげてのスズラン祭りの最中、目指すは出店の蒟蒻田楽よりもスズランそのものなのだ。
三台のバイクは脇目もふらず奥地を目指した。
村の奥深く行き着いたところには広大なスズランの群生地が広がっていた。
花の数こそまだ少ないがスズラン畑の中に立つと、あの芳しい香りが漂ってくる。
何度も鼻をひくつかせながら至福の香りを楽しんだ。
スズラン畑の中にはヤマシャクヤクやイカリソウが顔を見せ、香りだけじゃない楽しみを演出してくれる。
終始ふがふがと鼻を鳴らして少しでも香りの粒子を吸い込もうとしていたので些か思考能力が低下してい
たのかもしれない。
帰りの道すがら肝心のスズランの香りの念を黄泉の国の彼女に送ることをすっかり忘れていた事に気が付いた。
これで6月の中旬にまた入笠山へスズランの香りを求めて行く口実ができたというものだ。
ちょいと遅くなるけれど待っていて下さい。必ずスズランの香りの念をお送りします。
もちろんバイク便で・・・。