<走>
急に蕎麦が食べたくなった、それも旨い蕎麦が。旨い空気の元で、旨い水のあるところで。周りは静かな場所がいい。わさびは本わさびに限る。薬味は刻みネギだけでいい。つゆはちょっと辛目の濃い目が望ましい。蕎麦湯は少し濁ってとろみがつくほどの濃さが欲しい。噛めばシコシコとコシがあり、新蕎麦の香り豊かな味わいを楽しみたい。となるとやはり山梨県北巨摩の蕎麦街道の蕎麦屋を訪ねるしかないと決断した。
インターネットのホームページに密かなお誘いという感じで書き込んでおいた。たぶん誰も来ないだろうと思って期待もせずに指定した場所に赴くと、なんと物好きな蕎麦好きな人間が二人待っていた。W氏とB&H氏は「本当に蕎麦のはしごに行くんだろうか」と不安だったらしく半信半疑で待っていた。何といっても私のような気まぐれライダーに付き合うほど不安と当惑をもろに被ることはないのだと以前のツーリングで実感しているのだから。ともかく私のあかべこを見失わずにしっかり後に付いて走ることに専念しないととんでもない裏道や脇道を走るためうっかりすると迷子になりかねない。
中央道の談合坂から甲府昭和まで一気に走り抜ける。甲府盆地は白い靄に包まれており白いマシュマロの中に突っ込んでいくような気分になった。インターを降りて甲州街道を韮崎市役所のところまで行き、そこから「蕎麦街道」たる「県道17号茅野韮崎線七里岩ライン」に入る。そこから車載ビデオカメラを回し始めたのだが、どのような映像になるやら。いきなりのループをボクサーエンジンのヘッドを擦らんばかりに倒し込んで回っていく。 同行のB&H氏のRSは転倒の傷で満身創痍だった。あちこちに貼り付けてあるシールは見栄や飾りではなく傷を隠すための絆創膏らしい。冬枯れの櫟林を縫う道を過ぎると少し開けた果樹園になる。桃の収穫後に残った白い紙袋が満開だったが、所々ではしごを掛けて白い果実を採っている姿が見えた。
須玉に入ると道は狭くなったり広くなったり民家の軒先を掠めるかと思うと赤松林の中をくぐり抜けるようになる。やがて長坂のところで最初の「翁」への脇道に曲がる。 走りやすいコーナーの続く楽しいワインディングを気持ちよくアクセル全開にする。 後ろは付いてくるのかとミラーを見ると見失わない程度に距離を置いて来ていた。
<食>
雑木林の中に埋もれるように佇む「翁」は11時から15時までしか営業していない。
駐車場に停まる車のナンバーを見ると殆どが多摩、練馬、横浜など遠くからやってくる蕎麦好きの一行だった。遙々やってきて食べる価値ある蕎麦なのである。駐車場にバイクを並べてヘルメットを外したところで二人に道中の様子を尋ねると、RTのW氏は今回初めて取得した無線で独り盛り上がっていたらしい。蕎麦のはしごをするということなので「翁」での蕎麦は一枚だけにした。大体本格的な「こだわり蕎麦屋」にはメニューはない。盛り蕎麦かざる蕎麦しかないのである。
従って温かい天ぷら蕎麦とか鴨蕎麦などを食べたければ他のこだわらない蕎麦屋に行くしかない。寒い時期には少し辛い蕎麦喰いなのだった。注文してからさほど時間を置かずに蕎麦が出てきた。 新蕎麦の香り漂う冷たく締まった細めの麺を噛むとほつほつと心地よい歯触りがする。
「これ、旨いですね。」
「ホント、旨いよこれ、こんなに旨いとは思わなかった。」
「遠くから食べに来るはずだわ、うむ、旨い。」
食べ始めてからそれだけの会話があっただけで後は無言の時がネギと共に刻まれていた。
一気に食べ尽くした後芯から冷え切っていた体に温かい蕎麦湯は何よりの御馳走だったかもしれない。何しろ寒い中をバイクで走ってきて冷たい蕎麦を食べたのだから。
残った汁に白くとろりとした蕎麦湯を注ぎ唐辛子をたっぷりと入れて啜ると冷たい胃袋の中にじんわりと湯の温もりが染み渡りカプサイシンの熱い刺激が全身に行き渡ってホカホカしてくる。
「さ、次行こう。」
と、いそいそと店を出た三人は表で蕎麦批評家になっていた。
「蕎麦は旨いけれど、汁が平凡ですね。」
「ちょっと甘すぎるかな。」
「次も冷たい蕎麦ですか?」
「そう、盛り蕎麦しかない。」
こうして「翁」の蕎麦を味わった三人は記念写真など撮って再び走り出した。 次の「中島」までほんの15分くらいの距離なのだが、せっかく温まった体が走行中の風で元通りに冷えてしまう。 蕎麦街道を長坂から小淵沢に入り八ヶ岳を臨んで高原の爽やかな風を受けながら疾走していた。 山梨県と長野県の境ぎりぎりの所に「中島」はある。 「手打ちそば」の幟はためく普通の民家の前庭に三台のバイクがなだれ込んだ。ふと見るとそこの蕎麦屋のオヤジがニヤニヤして眺めていた。 
「いよっ、来たな。何枚?」
「今日は蕎麦のはしごしてるから一枚ずつで三枚ね。」
「へえ、でも寒いだろ、冷たい蕎麦ばっかりだと。」
「そうなんだよねえ、温かい蕎麦ないの?」
「この辺にはないなあ。街の大衆食堂に行けばあるかも。」
このオヤジは蕎麦屋と大衆食堂をちゃんと区別しているようだ。それもそうだろう、土日祝祭日しか営業していない趣味でやっている蕎麦屋なんだから。
奥に入ったオヤジはやがてコネコネ始めてトントンした後サッと茹でてからこんもりと盛って出てきた。三人の蕎麦喰いはまた無言で箸をすすめたが、先ほどの勢いは何処へやら、最後は笊に遠慮のかたまりが残ってしまった。そして冷えた胃袋に温かい蕎麦湯を流し込むとほっと一息ついたのだった。
「ここの汁はまた違って少し辛目ですね。」
「うん、蕎麦そのものは翁のと大差はないけれど、汁の違いで全く別物になるものなんですね。」
「へえ、同じ蕎麦でもこれだけの違いがあるんだ。良い経験した。」
「梯子酒ってのは聞くけど、梯子蕎麦ってのは初めてだ。」「だって、ボク酒飲めないし、喰うことでしかハシゴできないんだもん。」
どうやら私の見かけはでかいオッサンでも中身はガキなのかもしれない。
「さ、次どうしよう?」
些か冷たい蕎麦に辟易し始めた三人だったので、三軒目は原村の温かいほうとう鍋を食べることで意見が一致した。だが、そのほうとう屋までほんの10分ほどで着いてしまう。
胃袋の中の蕎麦がこなれるにはあまりにも時が短過ぎた。 最初三軒目に行く予定だった「おっこと亭」をちらりと横目に八ヶ岳鉢巻き道路へ向かった。少し遠回りでもして時間を稼がないととてもほうとうの入る余裕がない。 カラ松とコメ栂の林を抜ける鉢巻き道路は春は新緑、秋は紅葉で美しい。だがこの季節冬枯れでもそれなりの美しさで私たちを出迎えてくれた。そして爽やかな冷たい高原の空気を感じながら「原宿」という名のほうとう屋に着いた。今度は温かい麺のお出迎えだ。 鴨肉やカボチャ入りの「信玄ほうとう」をハフハフ頬張る。 冷たい蕎麦とはまた違った旨さが口に広がり暖かさがまさに五臓六腑に染み渡った。汁の味噌の風味がまた格別である。実に喉越しの爽やかな味噌の味なのだ。三人共歓喜の面持ちで無言の時を刻んだ。 店を出て記念写真を撮る姿は腹の突き出た放蕩オヤジの体たらくだったのは言うまでもない。やはり喰うことの梯子はやめた方がいいのかもしれない。
長野まで来た証拠を家族に持って帰りたいというお二方を諏訪まで案内すべく蕎麦街道たる七里岩ラインの一方の起点である茅野まで走り、裏道を抜けて諏訪湖の畔の「タケヤ味噌」の工場売店に行った。そこで、その工場売店でしか置いていない特製の味噌をお土産に物好き、否、蕎麦好きの二方と別れたのであった。
<転>
諏訪で別れていつもの美ヶ原温泉の民宿に向かったのだが、どうも空模様があやしくなってきた。そもそも松本に何度も来ていてすっきり晴れたことは殆ど記憶に無いような気がする。往きか帰りのどちらかが必ず雨か雪という雨男の名に恥じぬ散々な天候になるのである。今回はというと、宿に着くなり中学2年の娘が嬉しそうに空の袋を突きつけてきた。
「お年玉!」
そう、正月は子供のいる家庭には訪問しない方がいい。普段は番頭兼板前兼丁稚兼仲居という扱いなのにこの時期には金払いのいいお客さん扱いになってしまう。おまけに親までが何かとせがんできた。
「ねえ、BSチューナーの付いたビデオデッキ買ってえ。」
と、結局車で一緒に電器屋まで行ってビデオデッキを買わされてしまった。金蔓男の名に恥じぬ散財をした訳である。
一晩中降り続いた雨は朝には地面を濡らして上がっていた。前夜は金蔓男兼英語の家庭教師を演じさせられたのでこの期にまた番頭をやらされるのは堪ったもんじゃないとばかりに早々に出発した。雨上がりの松本平は白い靄が棚引いて美しい。その向こうに北アルプスがうっすらと雪をかぶった峰々をのぞかせている。あまりの美しさにしばしばバイクを停めて眺めるうちにカメラに収めようと思い立った。 最初のうちはバイクを降りて写真を撮っていたのだが、何回か走っては停めて撮り走っては停めて撮っていると降りるのが面倒になってしまい、サイドスタンドを立てて左に少し傾く所を無理矢理体を右にねじ曲げ両足をステップに掛けてヘルメットを被ったままカメラを構えた。
ファインダーの中には槍、穂高、焼岳の峰々がパノラマ展開して見える。かなりのワイドで遠景なので、ズームボタンを押して寄ろうと思ったのがいけなかった。体ごとズームしてしまったのである。するとファインダーの中の北アルプスが徐々に上へ上へとのぼってゆき、同時にバイクが右に倒れていくような変な感覚に陥った。とっさに右足を出して踏ん張ろうかとも思ったのだが、如何せん荷物満載の巨大バイクである。踏ん張りきれる筈もなく、ポッキリと折れる脚の骨の変な角度で歪んだ姿がデジャブのように脳裏を過ぎった。
「あ〜れ〜」という声と共に道の真ん中へゴロンと「転」んでしまった。畢竟あかべことベベパパ共倒れの図がここに完成した訳である。
通り過ぎる車の中からは翁や中島の蕎麦よりも冷ややかな目線が送られてきた。 その目線を背中に受けて必死でバイクを起こそうとするがトップケースに入っているマッキントッシュパワーブックG3と味噌3キロの重さが加わっているため重心が上がっていてなかなか起きない。 満身の力を込めて何とか「起」こしたときには全身の筋肉がフリーズ状態になってしまっていた。
今回のあかべこ日記には「結」は無い。
「起」と「転」が逆に先に出てしまった。
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