あかべこ日記 立秋編

「綾なる森」

平成12年葉月

by 古森 雲遊
<ベベパパ>

<黎明の霧>

 酷い世の中になってしまったものだ。
子が親の命を奪い、親が子の命を奪う。
野獣のようなという比喩は当てはまらない。
彼らに失礼である。
まして虫けらのごとくという比喩も当然使えない。
虫けらから野獣に至るまで、さらに世の動植物は本能として子孫を残すため必死に生きている。
他の生命を奪うのは自分が生きるために食べるという本能の行為であって然るべきなのだ。
意味もなく他の生命を奪うのは人間だけだろう。
生命の溢れる喜び、その「喜び」を感じない者は最早人間の心を失っているとしか思えない。

 森に溢れる生命の息吹を感じたくなって夜明けとともに走り出した。
日中の猛暑に比べ早朝の湘南海岸は涼やかな風が心地よい。
潮騒を余韻に残して疾走すると何か心落ち着くものがある。
くぐもったエンジンの鼓動、ヘルメットの中に聞こえてくる微かな潮騒、そう、子宮の胎児が聞く母親の心臓の音と血液の流れる音、さらに微かに伝わる外界の音に相似しているのかもしれない。
遠い生命の故郷がヘルメットの中に具現したかのようだ。
海を見遣るとキラキラ輝く波間に釣り船が幾艘も固まって停泊している。
渚には数え切れない程の釣り竿が立ち並び、糸を手繰る人あれば佇む人あり、駆け回る子供あれば波打ち際で足元を洗われながらとことこ歩む犬がいる。
実に平和で長閑な風景がそこにあった。

 箱根新道を登るにつれ辺りに白く霧が立ちこめてきた。
箱根峠から熱海峠に回り込む辺りは濃厚なミルクの如き霧が視界を塞ぎ、歩むような速度での走行を強いられる。
ライトの光が白い束となって前方に溶け込み、霧の粒子がコロイドのように漂っている。
シールドに細かい水滴が付着し曇りガラスのカップに入れたミルクを見るようだ。
前方というより下の白線を見ながら進むうち唐突に先行する車の尾灯が現れ追突しそうになる。
慌ててブレーキをかけるが前の車も霧中模索状態であるのは同じでブレーキランプが華々しく点灯しっぱなしだ。
余りにも白く見えないからとシールドをグイと拭うとミルクがかなり薄まった米のとぎ汁に変化した。
もっと早く気が付けばよかった。
ヘルメットに専用のワイパーが欲しいくらいだ。
少し速度を上げて霧の帳からの脱出を試みる。
嬉しいことに熱海峠の料金所まで来たときはすっかり霧は晴れていた。

<高原の奇妙な叫び声>

 標高500m程で伊豆スカイラインは半島を南下し、下界とは全く異なった植物相を路傍に展開している。
そこにはクマザサやハコネダケが密集して丸い山頂部を形成しているのが所々見え、低灌木が沿道で声援を送ってくれる。
亀石峠から更に南下すると徐々に気温が上がり始め、沿道の木々も背が伸びて曲がりくねった道の上に涼しい木
陰を落としてくれる。
冷川から中伊豆を抜け天城に至る道には様々な広葉樹、照葉樹が繁っている。
スダジイ、アラカシ、アカガシ、シラカシたちの間にミズナラ、コナラ、ケヤキの仲間が割って入り、なぜか寂しげにポツンと独りぼっちのトチノキが大きな葉をうち広げて自己主張をしていた。
伊豆高原で緑の大室山が巨大なズンダ餅のように眼前に横たわっている。
「緑のポコペン」と勝手に命名した美しい円錐形の山は他にもいろいろあり、気に入っている山々である。
阿蘇の米塚や富士朝霧高原にも小さくて可愛いポコペンがある。
大室山は大きくて円錐形がはっきりとは見えないが、離れて見ればそれなりに美しい。
海辺の国道の混雑を避け、赤沢からさっさと山手の道を進む。
標高100m程の山際を走る道だが、車の通りもまばらで信号も無く鬱蒼と繁る木々の中を通り抜ける快適な道だ。程なくして熱川の街中に入り商店街を抜けるとすぐに片瀬から天城高原へ駆け込んだ。
林道を簡易舗装しただけのような急坂をトコトコ登り、別荘地を抜けてシラヌタの大杉に至るガタガタ林道に突入と思っていたら、先週までガレ場だった道が真新しい簡易コンクリート舗装となって大杉の所まで続いていた。
これはシラヌタの池や大杉に会いに行く人のために舗装したのかと思ったのだが、どうやら道の脇に何カ所もあるワサビ田の栽培家のためのものだったようだ。

 伊豆高原の雑多な樹種の混交林と比べると天城高原の森は人工植林された杉ばかりが目立つ。
瓦礫の広がる林道の走行に集中するもサスペンションがヘタっているためにポンポン跳ねまくり押さえが効かないのを騙し騙し操りながら進む。
所々泥濘てんこ盛りの箇所を乗り越えるのだが、気合いとともにアクセルを開け山を越えた瞬間にゅるんと滑って直後には悲鳴に変わってしまう。
ブレーキを掛ければ即座に転倒して尖った岩の角で痛い思いをしかねない。
咄嗟にハンドルを握る手の力を抜きアクセルを開け続けることでトラクションの回復をはかり何とか転けずに切り抜けたのだが、そんなクライマックスシーンが「オバケスギ」の所まで何度も訪れてしまった。
天城の谷間に気合いと悲鳴が入り混じった奇妙な叫び声が長くこだまして聞こえたという。
 
<千手観音杉>

 「天城のオバケスギ」と地元では呼ばれていた奇妙な暴れ杉だが、個人的には霊験灼かな「千手観音杉」と名付けている。
何かしら不思議な巡り合わせを感じる木なのだ。
三度目の「千手観音杉」詣でをしに訪れたのだが、林道から外れたところにある小さな森に至るまでの小径が訪れる度に通りにくくなっていた。
ススキがますます高く伸び、カヤツリグサがますます足に絡みつく。
小さな森に入り込むと下生えの灌木が差し込む日の光を逃さず捕まえるかの如く葉をいっぱいに繁らせ、散り積もった落ち葉の布団にたっぷりと水分を含み、さながら熱帯雨林のようなムッとする空気をはらんでいた。
千手観音のような杉は四方八方に突き出した枝が燃え上がる火焔のように見えるのだが、具に観察しているとびっしりと張り付いた苔によって枝は潤いを保っているものの葉を付けていない枝が殆どで、樹冠のほんの先だけに申し訳程度の葉が見て取れる。
更に幹にはツタのような蔓植物がしっかりと食いつき、枝には別の植物の葉が繁っている。
全体的には杉の骨格標本といった感じかもしれない。
俗っぽく喩えれば「骸骨のストリップショー」なのだ。
しかしながら傍にいると何かしら気の安まる思いがする。
樹皮の苔に触れるとビロードのような手触りで温かさが伝わってくる。
幾年月の風雨や風雪に耐えてきたこの「杉の木」をこのままずーっと幾世紀も残さなくてはいけない。
何をすればいいんだろう? 何もしないのが一番いい。
この小さな森の中に永遠に封印してしまいたい。
人が何かをすることは木にとって一番迷惑なのだ。

 見つめているとこの木に愛しさを感じてしまう。
いや、この木だけではない。
周りにある灌木にも、少し離れたところにあるもう一本の大きな杉の木にも、地面に積もった落ち葉にも、そして行く手を塞ぐススキの葉、足元を覆うカヤツリグサ、土や泥に残るイノシシの足跡、小さな森の内外に営まれる生命の足跡に愛しさを感じたのだった。
不思議なことに周りのものに愛しさを感じて眺めると、いろいろなことが鮮明に見えてくる。
つまり周りの木々や草が饒舌に語り掛けてくるのだ。
「おお、若いのまた来たか。まあ、見ておくれ。皮が剥けて落ちてしまったもんだから結構カサカサに乾いているのだが、この苔のおかげで木肌の潤いが保たれておるのじゃ。」
「こんなに沢山枝を出したのには訳があってのう。昔この辺はもっとじめじめしておったのじゃ。シラヌタの池を見たじゃろ。ああいう風な場所だと枝に沢山葉をつけて根から吸い上げた水分をどんどん発散させないと根が水虫になりそうで・・・。でも、今はこんなに切り開かれて土も乾いてしまったから葉を落としてしまったのじゃ。」
「何だか儂の周りだけ切らずに残してくれたみたいじゃが、このままそっと何もしないでいてほしいもんじゃ。そのような歩きやすい道なんか造らんでいい。イノシシがちょくちょくやってきて足元をほじくってくれるから結構風通しもよくなったことだしのう。そうそう小鳥がいろいろ木の実や種を落としてくれるからいろんな木や草が生えてきて賑やかになったわい。ただ、ヤドリギの種をこんな枯れた枝の先に付けてもらってもかわいそうでな。たいしてお役に立てんから。」
「ススキとカヤツリグサがあれだけ跳梁跋扈してくれているおかげで殆ど人知れずいられるのじゃ。あのままにしておいてほしいものじゃ・・。」
かなり個人的な主観の入った翻訳をしてしまったが、そのようなことを木々が話していたそうな。

 立ち去りながら後ろを振り返ると、そこには確かに跳梁跋扈したススキのおかげであの「千手観音杉」の小さな森は見えなくなっていた。

<木々の綾>

 天城からは同じ道を戻ることにした。ゆっくり走ることで木々の饒舌な話を聞こうと思ったからだ。
20キロから30キロぐらいで辺りをきょろきょろ見回しながら走っていると様々なものが見えてくる。
アカガシやシラカシに混じって所々にハゼノキが赤いメッシュのおしゃれな葉を見せていたり、若いクスノキが旺盛な青葉を誇らしげに繁らせている。
人家が見られる所に来ると途端に園芸種の木の花が咲き乱れているのが面白い。
最近人気のサルスベリが臙脂色や濃いの薄いの淡いピンク、白と賑やかに彩り、沿道や庭先を飾っている。
栗の毬が蒼くまるまるとして枝にくっつき、イタヤカエデが蒼い葉の中に多くの蝶螺子のような種を仕込んでいて、近くにいる秋の気配を感じさせている。
東伊豆の温泉地帯に入ると、湯気の熱に当たってか木肌が赤く爛れている木に出会った。
ヤブニッケイの幹には黒い裂けたような皮目が横に走り、ビランジュは痛々しいような赤茶けた木肌を晒している。尤もバクチノキとも呼ばれるだけあって樹皮が身ぐるみはがれてしまうのはその木の性質なのだが。

 とろとろきょろきょろ走っていると後ろから来る車がいかにも邪魔だと言わんばかりに一旦スピードを緩め、一気に吹かして追い抜いていく。
こちらは遠慮して路肩に寄っているのだが、如何せんアルミ岡持三点セットを着けた巨大バイクだからとても遠慮しきれるものではないらしい。
しかしながら路肩に寄ると崖から伸びて出てきたヌルデの枝や草がビシバシと顔や体にぶつかる。
そのビシバシの群の中にふと面白い形のものが出現した。
薄緑のトゲトゲの卵のようなものがポコンとバイザーにぶつかったのだ。
バイクを停めてそのトゲトゲ卵に近寄って見ると甚だ奇妙な植物であることがよく分かる。
細長い柳のような葉をしていて白い五弁の花が咲いている。
その花とは別の枝にトゲトゲ卵がくっついており、触るとぷよぷよしていて気持ちがいい。
中には空気が詰まっていてさながら風船のようだ。
それもそのはず、後で調べると名前は「風船唐綿(フウセントウワタ)、風船玉の木」と呼ばれ、熟すとその風船が割れて中から白い羽状の毛を付けた黒褐色の種子が風に乗って飛散するという。

 天城高原、伊豆高原、箱根の山々、富士樹海、さらに奥多摩から秩父山系の木々を見ていると立ち枯れの木や、葉の茂りが片寄った木、樹皮が酷く剥がれ落ちている木が目立つ。
木々の中を走り抜けると聞こえてくるのは木々の苦しい悲鳴のような叫びが訴えるように響いてくる。
酸性雨の仕業もあろう。
人の手による伐採や植林で植相の急激な変貌も影響している。
保護・保全の名の下に道路の整備と称して木々の根を断ち切ってしまう。
木々の根元を舗装してしまう。
木は地上の葉だけで呼吸しているのではない。
木の根も水や養分を吸収していわば地中で鰓呼吸をしているのだ。
動物の生命活動には積極的に理解を示すのに、なぜ、植物の生命活動には関心が薄いのだろう。
ただ悠久を生きるがため時の流れの速さが異なるだけなのだ。
植物はその大きさ力強さでは動物とは比べ物にならないほど大きい。
しかし植物の寛大さに動物は甘んじ過ぎている嫌いがある。
路傍の木々の囁きには沈黙の抗議を感じずにはいられなかった。

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