銀爺さんの奥能登一人旅


平成11年7月
by 森くらうど<ベベパパ>


<その一>

 福井に用事があるとて端から電車バスで行く気など毛頭ない。
前の日からアカベコGSの三つの大きなケースに衣類とカメラと必要書類を詰め込み、一応雨具の用意万端整えて床に就いた。
そして翌朝、あいにくの雨模様。天気図を見ると台風の影響を受けた雨雲が、行く手を阻んでいるように見えた。
端から雨の走行はもう嫌じゃとばかりに、そそくさとバイク用の荷を解き、幌を上げたBMWZ3(銀爺さん)にさっさと積み込んでしまった。せっかくのオープンカーなのに殆ど雨仕様になってしまっている。
早朝の6時といっても、道にはすでに車が溢れている。ちょこまか裏道を走り抜けて港北青葉のインターから東名に乗った時には7時を回っていた。小雨がぱらつき、フロントガラスに細かく付着する水滴をワイパーが小刻みに拭い去る。どうもこのワイパーの動きは苦手である。丁度催眠術で目の前に振り子を振るがごとく目の前を過ぎるワイパーの動きを目の片隅に捉えていると、自然に睡魔が襲ってくる。只でさえ睡眠不足なのに、これからの500キロ近い行程を睡魔と戦いながら行かねばならないのだ。カーステレオのスイッチを入れると音楽ならぬ桂枝雀の落語が聞こえてくる。6枚入るCDプレーヤーの全部が桂枝雀の落語なのである。「崇徳院」「口入屋」「高津の富」「寝床」「どうらんの幸助」「二人酒」「三十石」「代書屋」「寄合酒」「愛宕参り」「住吉籠」「鷺とり」「饅頭こわい」「犬の目医者」「猫の忠信」などなどいずれも傑作ばかりだ。何度聞いても枝雀の話芸には笑わされる。何度も聞いているから『落ち』は分かっているのだが、その『落ち』を待ちかまえて笑ってしまうのだ。ずーっと聞いていると大体自分でも噺を再現できそうなのだが、いざやってみると巧くは話せない。やはり話芸という技ならではのことだろう。

 東名を走ること1時間ほどで、雨は上がってしまった。静岡からは、じりじり照りつける太陽の日差しが屋根の幌を通して頭の皮を焼く。幌を下ろせば頭の皮焼きはおろか、首から下の露出した肌がこんがりと焼き上がってしまうだろう。こんなことならバイクで来れば良かったと後悔したが後の祭りだ。

 途中トイレ休憩は2回したものの、殆どノンストップで福井まで走りきってしまった。高速道路はさほど混んでもいず順調に流れており、懼れていた睡魔も落語のおかげで襲ってくることはなかった。しかし、車中で一人ゲラゲラ笑っているオヤジを見た人はさぞや不気味だったであろう。
 

<その二>

 福井での用事を早々に済ませた後、以前走り回った懐かしの白山の山中に分け入った。といっても車高の低い「銀爺さん」ゆえ平坦な道しか進めない。
勝山市から157号線に入ると、うねうねと曲がりくねった山道が続く。バイクなら快適な道なのだが、丸いハンドルを幾度となく切り返すのは大変な重労働である。その重労働に気を取られていたためか、立ち寄ろうとしていた「太田の大栃」に続く峠の脇道を見落としてしまった。
気が付けば白峰村に入っており、「恐竜の里」の幟がはたはたとはためいていた。そういえば、今朝の新聞でヴェロキラプトルの仲間の脚の爪の部分化石が白峰村で発見されたと騒ぐ記事があったが、まさにその場所に出くわしてしまった訳だ。
引き返すのも億劫なので、この際恐竜の化石でも見ておこうかと銀爺さんの鼻先を向けると「一般車進入禁止」の表示。どうもすみませんと、さっさと先を急いだ。
幾つものトンネルを抜け、鳥越村に入ったところでまたまた「御仏供杉」という名木巨木を見に行こうとしたのだが、如何せん引っ越しでもしたのだろうか、全く見つからないのだ。どうも土地勘が鈍っているとしか思えない今回の愚業である。只でさえ熱い太陽の日差しを浴びて、頭がぼーっとしているのだから尚更といえば尚更なのだが、それでも懲りずにオープンで走るところは、せめてバイクで走る気分を味わおうとする気構えか。

 金沢市内を抜けて能登有料道路を走るが、ガードレールが高いのか車が低いのか、殆ど景色を楽しむことは能わず、ちょこちょこと小刻みに料金をとられてしまうこと実に不快だった。というのも、自動徴収機のため左ハンドルの銀爺さんから思い切り体を伸ばして不自然な体勢を強いたため、首筋と背中と腰とふくらはぎと脇腹と二の腕と胸の筋肉や筋が、ずぎぐぎごげぴきぽきついーんぺかと変な音を立てて、体中に痛みという感覚をもたらしたのであった。
途中携帯電話で予約を入れた和倉温泉のホテルまで、こきこきぐりぐりぺこぺこごきごき腕や肩や首を動かし動かし辿り着いたのは、予定の時間の6時ぴったりだった。我ながら行程時間だけはしっかり把握できるようである。

 夕食を食べようと店を探して和倉の街を歩くうち、何もめぼしい店が見つからず、途中開いていた店で良しとするかと戻ったら、まだ7時の宵の口というのに、どの店もシャッターを下ろして閉めてしまっていた。全く何も無い街だ。仕方なくコンビニで弁当を買い、さもしい夕食と相成った。だったら能登島の民宿にすれば良かったと後悔してももう遅い。


<その三>

 翌朝早々にホテルを出ると目の前の能登島大橋を渡った。
島とはいえ割と大きな面積があり、いろいろ見るべきものが点在しているはずである。ふと古墳という文字が目に止まったので、その脇道に入っていった。行き着いた所には須曽蝦夷穴古墳という国指定史跡があり、古墳が復元整備されて公園になっている。歴史センターという展示場が隣接しており、そこの解説によると、その古墳は古墳時代の終わり頃の7世紀中頃に築かれた有力者の墳墓とあった。当時の有力者とはどのような人物を指すのだろう。能登半島の離れ小島に、しかも朝鮮半島の墳墓に酷似した墳墓なのである。
おそらく朝鮮から渡ってきた人間が地元に腰を落ち着け、陶器や磁器、太刀等の刀装具、金銀の装飾品などの朝鮮文化を伝え持ってきた後、この地に骨を埋めたのであろう。当時の有力者とは決して権力を振りかざす愚かな輩ではなく、農民漁民の生活に多大なる利益をもたらし、尊敬の念をもって死後墳墓を造られた筈である。
副葬品などから推測するに、おそらくその人物は朝鮮民族で高句麗から渡ってきたのではないだろうか。ただ、「蝦夷(えぞ)」は「えみし」であり大和朝廷に刃向かう人間を指している。また、隋が滅んで唐が興った頃であり、遣隋使から遣唐使へと朝廷が中国大陸との交易を深める中、朝廷側に立つ越の国守阿倍比羅夫が水軍を率いてその蝦夷と戦っている。いずれ高句麗は唐と新羅の連合軍によって滅ぼされてしまうのだが、その反骨精神の現れと言おうか墳墓の口は大和朝廷とは方向違いの方にそっぽを向いて、越の国の方角に大きな安山岩の丸い石を据えており、死しても尚礫をもって立ち向かう姿勢が見られるようである。
その地域の人々もまた反中央思想があったかどうか定かではないが、その有力者を擁護したのは確かなことである。何だか今の朝鮮半島の状況を彷彿とさせるような位置関係ではないか。高句麗が北朝鮮ならば、新羅の韓国、唐の中国、大和朝廷の日本という図式ができあがる。
レベルの差はあれど、状況としては歴史的な繰り返しが起きているような感じがする。

 古代へ思いを馳せたロマンを残して、再び炎天下水族館の方に走った。能登島水族館はレクリエーション施設を隣接したレジャーランドのようなものだった。
例によって回遊水槽とマリンガールの餌付けショー、イルカ・クジラショーとお馴染みのメニューとともに、トンネル水槽など些か食傷気味になてしまった。
早々に飽きてしまい退散したのだが、島の中から脱出しようと橋に通じる道を探すうち、細い山道畦道に迷い込んでしまい、かなりのタイムロスを余儀なくされてしまった。
やっとの事で島から抜け出す橋を渡り、大汗をかいてしまったので近場の温泉で汗を流そうと探したのが穴水の温泉だった。
ガソリンスタンドで聞いたのだが、地元の人間が大した温泉ではないと言うぐらいだから、あまり期待しないでいた。実際行ってみると結構充実した温泉だった。大型の銭湯といった類で、湯も単純泉だったようだ。探しても例の温泉の水質検査表がどこにも見あたらなかった。それでも汗を流すには十分だったので、しばらく浸かった後うつらうつらとソファでうたた寝をしてしまった。

 眠気の抜けきらない気怠さを残しながら再びハンドルを握った。穴水から門前町へと向かうが、途中回転寿司屋で空腹を満たし、少し気分が良くなったところで走り出す。
門前町には横浜鶴見総持寺の大本山総持寺祖院がある。正しくは諸嶽山總持寺祖院といい、今から約700年前、元亨元年(1321年)に開創された。その後全国にその末寺1万6千余を数えるに至ったが明治31年4月13日、火災により七堂伽藍の大部分を焼失した。それを機に布教伝道の中心を横浜の鶴見に移したとある。その後、山門や僧堂などいくつかが再建され今に至っているが、なかなか趣のある風光幽玄な風情を醸し出している。

 後は輪島まで行けば良いのだが、ただふつうの道を行くのは心許ないので海岸線の道を行くことにした。切り立った崖縁を縫うように造られた道を進むうち、見晴らしの良い「ゾウゾウ鼻」という場所に出た。
波静かな日本海が眼下に広がり、朝鮮半島が臨めるかとも思ったが、かすんで見えなかった。同じ地球上で平和な暮らしをしている我々にとって、対岸の国々での諍いなど想像もできないことだが、現実には飢えに苦しむ国民が居てその支配者達は軍事力にばかり心血を注いでいる愚かしい人間の業がそこにある。

 やがて輪島の街に入り、その夜の宿の探索を始めた。
能登のクマさんという同じバイク乗りの仲間の家に転がり込むつもりなのだが、Eメールと電話だけの付き合いだったので、まだ本人とは面識がない。住所を頼りに郵便局で場所を訊ねた。親切丁寧に住居地図を引っぱり出し、職員3人が頭をつき合わせてああでもないこうでもないと探してくれた。中でも一番年長のおじさんが「ああ、学校の先生しとる人じゃろ。じゃったらこの家だ。」と一軒の家を指さした。
これまた丁寧にお礼を申し上げ、輪島の市街地からずーっと離れた曽々木海岸の辺りまで車を走らせた。大凡の目安を付けて道を曲がり、橋を渡って、それらしき集落のあたりまで来た。畑で作業しているお婆ちゃんに尋ねると、
「ああ、若い方の先生の家かね。じゃったらほれ、あの家じゃ。」
と指さす先には、少し前に通り過ぎた家があった。家の前まで来て携帯電話をかけると家の中で呼出音が聞こえる。やがて子供の声が出て、「まだ帰ってきてません」との答え。見ず知らずのオヤジが子供だけの家に上がり込むのはとてもできないので、帰ってくるまでどこかで時間をつぶすことにした。

 海沿いのコンビニの前で中学生と思しき一団が屯していた。能登の先っぽで外車のオープンカーが珍しいのだろう。
「わー、すっげえ車。乗ってみてえ。」
「かっこいい。」
「大金持ちじゃろな。」
「速そう。」
と、こそばゆくなるようなこども達の批評の声が聞こえてくる。
「おじさん貧乏でねえ、車のお屋根買えないんだよ。」
と、家の近所の子供に言ったら、
「ママ、べべちゃんのパパ貧乏なんだって。車の屋根買えないんだって。」「なに言ってんのよ。あの車一台でうちの車3台買えるのよ!」
とまあ洒落が素直に通じるのだが、中学生には駄目だろう。

 その中学生たちにクマさんの事を訊ねると、皆小学校の時の教え子だった。でっかいバイクに乗っている先生ということで結構有名らしい。
曽々木海岸の「窓岩」を眺めながら沈み行く夕陽に人生の黄昏を感じていたかどうかは定かではないが、潮騒の音が心地よく響いていたのは確かだった。


<その四>

 夕暮れになって近所から電話をかけると、本人が帰っていたので即刻到着した。携帯電話って本当に便利。
初めて顔を合わせたにもかかわらず旧知の仲の如くすぐにうち解けあった。
「汗かいたでしょうから、すぐ温泉に行きましょうよ。すぐそこですから。」と、「すぐそこ」という言葉にのって二人で走り出した。妻子は残して行かざるを得ない。
なにしろ我が「銀爺さん」は二人乗りなのだから。
「はい、そこ右へ。次左。このまままっすぐ。・・・・・」と言われるままに走るのだが、「すぐそこ」がなかなかやってこない。結局30分ほど走り能登半島を縦断するような形で縄文真脇というところの温泉施設に到着した。
クマさんはさっさと服を脱いで浴場に入っていった。彼の身長は187cmで私より1cm高いのだが、体重は80kgと私より10kg軽い分全体にスリムな体つきをしている。小学校の教員をしているのだから毎日子供達と走り回っているのだろう。なまった体のサラリーマンと違って締まっている。
海辺の高台に湧き出る温泉は塩化ナトリウム泉であった。つまり温かい海水なのだが、
総檜造りの大きな浴槽に星空の下でのんびり浸かるのもなかなか乙なものであった。
ただ、子供が走り回っていて目の前でツルンと滑り両足を高く上げたままお尻から浴
槽に飛び込んできたのには驚いた。

 半時も入っていた後そそくさと服を着て出るのだが、クマさんの動きの速いことモタモタしていると置いて行かれそうになる。動作のスピードは身長と体重には関係なく筋肉の質量に比例するようである。
再び銀爺さんに乗って漆黒の闇の中を疾走していく。来た道を戻るのだから簡単と思いきや、闇の中の目印は認識し難いものであることがよく分かった。結局ナビゲーターに逐次行く手を指示してもらって走ったのだった。

 夕食は奥さんの手作り料理が並んだ。殆どの材料が自家製だとのこと。山菜は山で採ってくるし、貝や海草は海で採ってくる。野菜や米も自作のコシヒカリで都会暮らしの人間には羨ましい限りの食生活だ。
私も早いところ田舎に引っ込んで悠々自適の生活をしたいと思うのだが、いろいろな柵がそうはさせてくれない現実がある。その夜、部屋の窓を少し開けて眠ったのだが、田圃で鳴き交わす蛙の合唱が懐かしく耳元に届き、何時しか夢の中に溶け込んでいった。


<その五>

 早朝心地よい目覚めで起きあがったのだが、一瞬何処にいるのだか判断が付かなかった。もぞもぞ起き出したオヤジを早起きの一家が居間で迎えてくれる。休日にもかかわらず早くから起き出した奥さんのトントンと菜を刻む音が家庭という舞台の演目に実によく似合う。私自身永い独り暮らしで忘れかけていた音でもあった。

 朝が早いとその日の活動時間は長い。まず、輪島の朝市に行くべくクマさんの車で走り出した。輪島市内での小用を足す間、私と奥さんとで朝市の通りをぶらついた。
昔の朝市は手拭いで頬被りをしてもんぺ姿のお婆さん達が何とも哀愁を帯びた呼び声を掛けてきたものだ。
「カニ買ってってくれんかねぇ・・。」
「そこのお兄さん、とれたての魚買わんかねぇ・・。」
ところが、今は活きの良いおばさんやお姉さんが陽気に声をかけてくる。
「あ〜ら、お・に・い・さん! いい男じゃねぇ、ね、ね、これ、買ってってえー! 美味しいカニだよお!」
「ね、社長! 旦那ぁ! 安くしとくから持ってってぇ!」
アメ横や歌舞伎町の呼び込みと大して変わらない。
ただ、少し賑わいから外れた路傍で、ささやかに飾り小物を並べているお婆さんだけが昔の面影を残していた。悲しいことにそのお婆さんの前で足を留める人は見あたらなかった。

 一旦家に戻って今度はバイクと銀爺さんで能登半島の先端まで行くことにした。
当然バイクにはクマさん、私の横には奥さんが乗り込み、海岸縁の道路を走り出した。爽やかな風が開け放ったオープンカーを吹き抜ける。私の髪の毛が風に煽られてうるさく絡みつく。ひょいと横を見ると小柄な彼女の髪は全く乱れていなかった。そもそも普通の人間ならばオープンで走ってもそう髪が乱れることはない。私のような巨大幼児体型だからこそ風当たりが強いのかもしれない。

 能登の塩の展示館ができていたので訪ねてみた。
実験的な揚げ浜式塩田があり、小屋の中では濃い鹹水が大鍋で煮詰められていた。
むっとする熱気の中で鍋の表面には塩の結晶が踊っていた。その展示館の隣には民宿を経営しながら塩田を維持して塩づくりをしている親父さんがいる。私たちが訪れると汐撒きを実演して見せてくれた。
水桶を天秤棒で担いで50mほど先の浜まで行き、いっぱいに汲んだ海水を何度も往復して盥に溜める。そして、撒き壺で砂の上に海水を均等に撒き散らす。かなりの重労働だ。実際の作業は塩の溜まった砂を掻き集め、更にその上から海水を注いで濃い塩水即ち鹹水を作り、それを大釜で煮詰めて塩を採るのである。
母屋の方で作った塩を売っているというので購ったら50gで500円だった。1キロ100円のJT塩に比べたらべらぼうな値段だが、あの重労働を独りでやって作っているのだから貴重な塩と言えよう。確かに同じ塩とはいえ全く味が異なる。ちょっと舐めただけでも何となく甘いのだ。円やかな甘い塩という表現が当てはまる塩なのだ。

 更に突端まで走っていって記念写真を撮り、帰ってきたのだが、まだ昼前だった。
朝が早いと一日の何と長いことよ。すぐに出立すべく能登を辞そうとすると、能登有料道路まで送ってくれるとのこと。
クマさんはバイクから四駆に乗り換え、奥さんはそのまま私の横に乗ったままちょこまかと裏道を案内してくれた。遠来の友を快くもてなしてくれたクマさん一家に大いに感謝したい。
その感謝の気持ちをBMWのGSがいいぞいいぞという勧誘の気持ちに込めたのだが、案の定すぐに乗り換えてしまった。奥さんももうあきらめの境地だったに違いない。
何しろ巨大な男が巨大な男に巨大なバイクがベストマッチだぞと吹聴して煽りまくったものだから、小柄な彼女にとっては一溜まりもなかったであろう。

 春の啓蟄の頃、でかいバイク同士で走り回ることを約束して帰途についたのであった。

あかべこ日記TOPHOME |
 

 Copyright (C)1998-2003 Unyuh Komori ,All rights reserved