「痛身抄」
byベベパパ
我が人生五十年において、身体に負った傷は数知れず、その痛みの記憶は、体のあちこちに傷痕となって残っている。
その痛みの中でも、脳裏に甦るのは怪我をした瞬間の神経的痛みよりも、そこから治癒に至る間の不自由な体の拘束が、心の痛みとして記憶に残っている。
自分の体をつぶさに見れば、両足首、両膝、腰、首、肩、頭とまんべんなく負傷している。
それぞれが、自分の不注意によるものと不可抗力によるものがあるが、普通ならば骨折してもおかしくないほどの強い衝撃を受けても、持って生まれた頑丈な骨格のお陰で、皮膚から筋肉、靱帯を損傷するまでに止まり、骨折の経験は未だにない。
母親の話では、姉二人が終戦直後の栄養不足で骨が弱く、よく骨折したり脱臼したりしていた。
三人目の子はしっかり栄養を摂るべく母胎内にいるころ、毎日カルシウムの注射をして煮干しを食べていたとのこと。
産まれる前に医者からカルシウムの摂取を止められたとも言っていた。あまり摂ると、胎児が成長し過ぎて出て来られなくなるらしい。
そして、産まれた男の子は、確かに骨の成長著しく、人並み外れた巨躯になってしまった。五十歳を過ぎて、身長は一八六センチ、座高は一メートル、体重は九十キロを超し、足の寸法も三十センチとすべてにおいて規格はずれの体になった。
お陰で衣食住にとても不自由している。
過去の栄光はといえば、小中学校で、歯の健康優良児として三回表彰されたぐらいか。いずれにせよ、規格外の体躯による不可抗力の負傷を含めて、痛みの記憶を辿ってみよう。
【足首】
小学三年生の頃、京都の家には数人の学生が下宿していた。
京都大学、同志社大学などの学生がいて、イトウさんを始め、ヒロちゃん、タダさんなどが、母屋の二階、離れ座敷、茶室、蔵の二階などに住んでいた。
常に人の出入りが多く、学生仲間はもちろんのこと、母の友人知人などが毎日の如く訪れて来て、実に賑やかな家だった。
当時、台所は土間にあり、みんなそこで炊事をしていたのだが、ある時、ヤカンに湯を沸かしていて、その前で二・三人の学生とふざけていた。
振り回した手が当たったのか、ヤカンが落ちて、煮え立った熱湯が私の右足首にかかった。
「ギャー!」と泣き叫ぶと、咄嗟に学生の一人が靴下を脱がし、傍にあった油を足首にぶっかけた。
火傷を負った皮膚が空気に触れないようにする処置だったのか、それはそれで一旦ひりひりする痛みは治まったのだが、何を思ったのか誰かが塩をパラパラと油まみれの足首に振りかけた。
再び強烈な痛みが襲い、「ギャー!」と大声で泣き叫んだ。親たちも慌てており、布巾で足首を包んで抱えられるようにタクシーに乗せられ、高野の安井病院に担ぎ込まれた。
医者がそろりと布巾を外すと、すでに水膨れができていた。
「ああ、ひどいなあ、何、油を塗ったの? まあ、油はいいけど、この塩は何、味でも付けるつもりかいな。」
「塩はあきませんか。」
「あかんあかん、ボク、塩かけられたら痛かったやろ。」
「ふ、ふえ、ふえ、ふ、ふん、い、いたかった・・・。」
「そらそうやなあ、因幡の白ウサギやないんやから、傷口に塩を擦り込んだらかわいそうやで。」
その時は、「因幡の白ウサギ」の意味が分からなかったが、後になって事態を理解できるようになると、塩を傷口に振りかけるなど、とんでもないことだと悟った。
いったい誰が塩を振りかけたのだろうか。
四十年以上経った今でも、足首には白く薄い火傷の痕が残っている。
十九歳の浪人生の時、我が家で初めて犬を飼いだした。
それまでは、ずっと猫ばかりいたのだが、たまたま知人の家でシェパードと柴犬の混血の子犬が生まれたというのでもらってきたのだ。
最初は、姉や母親が面倒をみるから、私は受験勉強に打ち込みなさいと言われたのだが、「勉強ばかりやってると運動不足になるから。」とすぐに散歩の役目を押しつけられ、「散歩の後はちゃんとゴハンをやらんとあかんから。」と、ゴハンの係を仰せつかり、結局のところ殆ど犬も猫も面倒をみるようになっていた。
猫に関しては、私の生まれた時からの付き合いで、「刷り込み」によるものか今でも猫を見るとどうしても甘えたくなる。
従って、猫を飼うという感覚はなく、家族同様に暮らし、「エサを与える」のではなく「ゴハンをあげる」という風に猫の地位は高いところに置かれていた。
それに、猫は犬と違って散歩をさせる必要もなく、ゴハンも適当に茶碗に入れておけば、好きなときに食べてくれるので手がかからない。
ところが、犬を「飼う」ようになって、実に手間のかかる動物だと認識した。
朝、散歩に行く時間になると、「キュンキュンワンワンキュウンキュウン・・・」と矢のような催促で鳴き続ける。
鎖で繋いでおかないと、どこかに脱走してしまうのが常だった。
だから、いつも引き綱をつけて散歩していた。
朝寝坊できない毎日が続く。
そして、夕方になると、再び「キュウンキュンキュンキュンキュンキュン・・・」催促が始まり、人間の強制散歩に行くのだ。大
抵は、裏の吉田山をぐるりと回って戻るだけなのだが、次第に飽きてきて、その内、あちこちに足を伸ばし始めた。
何といっても京都の名だたる古刹がひしめき合う地域である。
吉田神社を始め、宗忠神社、真如堂、他にも天皇御陵が点在し、墓地の中をいろいろ探索して歩いた。
そして、ある時、黒谷さんと呼んでいた金戒光明寺の境内を散歩していると、ちょうど時代劇の撮影をしていた。
大川橋蔵の「銭形平次」だった。
その時、たまたま引き綱を外していたので、犬が勝手に撮影中の場所をとことこと通り過ぎてしまった。
しかも本番中で、監督の「スタート!」の声に合わせるように、犬が足元から飛び出してしまったのだ。
スタッフと見物人も一同唖然としていたが、役者の演技は続いている。
銭形平次が十手で悪者の侍をはっしと打ち、侍がうぉーっと叫んで倒れ込むところに犬が通りかかり、地面に落ちる刀の音にびっくりして尻尾を巻いて跳んで逃げ出してしまった。
「カットォー! ああ、しゃあないなあ、おいカメラさん、今の犬写ってたか。」
「ああ、バッチリ撮れてるで。」
「どないしょう、取り直しできるかいな。」
「ええんちゃうか、普通の犬やさかい、わからんで。」
「ウン、よっしゃ、オーケー!」
で、何と我が犬がテレビ時代劇に初出演したようなのだ。
その後、銭形平次がニコニコ笑いながら言った。
「あの犬、いい演技してたね。」
飼い主だとバレないように、見物人の後の方から回り込んで、境内の裏に入ったところで犬を捕まえ、引き綱に繋いだ。
そしてそのまま奥の墓地を一回りして戻ってきたが、撮影隊はすでに引き上げていた。
ぶらぶらと中庭の六角堂に上り、欄干を越えて犬が飛び降りたので、引き綱を持っている手前一緒に飛び降りなければとぴょんと跳んだのだが、空中でバランスを崩し、変な角度で着地してしまった。
「グギッ!」変な音がして右足首に痛みが走った。
一瞬、骨が折れたと思いこみ、悲鳴を上げてのたうち回ったが、犬は訳が分からず周りをはしゃぎ回っていた。
四つん這いになって境内から出ると、たまたま軽トラックのおじさんが通りかかった。
「どないしたんや。」
「向こうで飛び降りたら足の骨折ってしもたみたい。すんませんけど、病院に連れていってもらえませんか。」
「ああ、よっしゃよっしゃ、ええで。」
と、通りがかりのおじさんの親切に甘えてしまった。
小学校の近所にある「吉川整形外科医院」を思いつき、そこに運んでもらうと、家に電話をかけた。
「おかあさん、黒谷さんで足の骨折ってしもた。今吉川医院にいるさかい来て。」
母親が来るまでに、レントゲンを撮って検査をしたが、骨は折れてはいなかった。
そのかわり踝の靱帯を断裂していた。
それから一ヶ月あまり、人生初の松葉杖生活が続いたが、もう一つ初めての体験をしていた。
当時和式便所、それも汲み取り式であったために用足しができない。
そこで、腰掛け式のポータブルトイレを買ってきてもらった。
寝る場所も蔵の一階に姉の使っていたベッドがあったので、そのまましばらく蔵の中で寝起きをしていた。
洋式トイレに慣れたのはその時が最初だが、バスに乗ったとき、さっと席を譲られたのも初めての体験だった。
大学三年の夏休み、当時アルバイトで東映のアクション・ショーに出ていた。
今の戦隊ヒーローもののはしりである「ゴレンジャー」や「怪傑ズバット」「怪人二十面相」など、地方の百貨店の屋上や公園の広場などでヒーローショーを「営業」していた。
確か「東映アクションクラブ」とかいう事務所に誘われて、数人のグループで地方を回っていた。
その夏休み、二週間の予定で、「那須りんどう湖」の「スパイダーマン・ショー」を営業しに行った。
広場にステージがあり、MCがショーを進めてゆくのだが、最初の内は、会場の子供たちを相手に、簡単なインタビューやゲームなどで盛り上げてゆく。
そして、まず悪の親玉が出て来るや、
「うわはははは、このりんどう湖は俺達が占拠した。助けを呼んでも誰も来ないぞ。そらっ、後を見ろ!・・・だ〜れもいないわ、むふぁはははは・・・。」
などと、観客をいじり、戦闘員たちが客席になだれ込んで、人質の子供を数人ステージに上げると、再び簡単なゲームをやって進める。
そして、ゲームで悪玉が負けたところで、開き直ると人質達をいたぶり始める。
そこへ、ヒーローの登場となるのだ。
その時は、スパイダーマンが、会場の呼び声にトランポリンで宙返りしながらステージに飛び出すのだが、当然、私はあの全身タイツの中にはいない。
最初のころからヒーローの着ぐるみには入れない体型ゆえ、戦闘員か怪人役ばかりだった。何しろ戦隊ヒーローたちの衣装は、仮面やブーツに至るまで標準体型に合わせて作ってあり、二十六センチのブーツに三十センチの足は入らない。
「スパイダーマン・ショー」でも、ウレタンゴム製の半魚人の着ぐるみをつけて動き回っていた。
戦闘員ならば、一応アクションの殺陣をこなしていたが、ごわごわの半魚人では思うように動けない。
まして、視界がほとんどなく、こっちの動きに合わせてスパイダーマンが戦ってくれた。
一度、屋根に上がる時に、にわか雨が降り出し、斜めのトタン板でズルズル滑った。
ウレタンゴムなだけに濡れたトタン板では突起をつかんでもちゅるっと滑ってしまう。
屋根の端までズルズル滑り落ちて、半魚人は「助けてー!」と必死に叫ぶ。その時、スパイダーマンがひらりと現れてむんずと半魚人の背びれをつかみ、無事にハシゴから助け下ろしてくれた。
夏の炎天下、屋根の上で動くとウレタンゴムの着ぐるみの中は、サウナスーツ以上に熱くなる。
猛烈な汗が吹き出し、全部下の足底に溜まるのだが、途中で歩くたびにグッチョグッチョと瑞々しい音を立てていた。
脱ぐと、じょーっと汗が滝のように流れ落ちる。
その頃は、身長こそ百八十五センチあったが、体重は六十キロほどしかなく、まさにガリガリの体型だった。
一ステージ終わると、ヤカンの水をがぶ飲みしていたようだ。
二週間のショーの最後の日、ステージでの戦闘シーンが終わって、急いでステージの裏に回り、ハシゴで屋根に上がる。
七メートルの高さの屋根の上で演じるのだが、最初二人の戦闘員が戦い、「キヒィー!」という悲鳴を上げてステージ前に置かれた
ウレタンマットの上に飛び降りる。
その時、「背落ち」という体勢でマットの上に落ちる。
半魚人は、背中に大きな背びれがあり、背落ちができないので、そのまま足から着地するようにしていた。
そして、前もって屋根の上から下のマットの位置を確認していたのだが、先に飛び降りた戦闘員の勢いで、マットの位置がずれてしまった。
屋根の上でスパイダーマンに攻撃されて、段取り通りパッと空中に飛び出す。
手足をバタバタさせて落ちる時、ふと下のマットが見えた。
ずれてる! 次の瞬間、右足は辛うじてマットの上に乗ったが、左足は直接地面に着地してしまった。
「バキッ!」
厭な音がして足首に痛みが走った。
七メートルの高さから飛び降りたのだから、たとえ六十キロ前後の体重とはいえ、相当の荷重が足首にかかったはずだ。
「いった〜い!」と、半魚人がウレタンゴムの仮面の中で叫んでも、外には聞こえない。
左足を引きずってステージに戻ろうとすると、周りにいた子供達はきゃっきゃと歓声を上げて、悪玉の半魚人を蹴っ飛ばし踏んづけて殴りかかってきた。
あの時ほど子供が悪魔に見えたことはない。
這々の体で舞台袖に逃げ込むと、仲間は拍手で迎えた。
「いよお、名演技、すごく良かったぞ。」
もがき苦しむ半魚人を褒め讃えてくれるのはいいが、中の人間は現実の痛みにもだえ苦しんでいたのだ。
「違う、違う、演技やない、骨が折れたみたいや。」
「え、ええー!?」
何とかウレタンゴムの衣装を脱ぐと、左の足首はぷっくりと腫れていた。
最終日だったのと、それまでの二週間に殆どのメンバーが怪我をしており、湿布薬や包帯がワンサとあったので、応急処置で左足をぐるぐるに縛り上げ、仲間の肩を借りて東京に戻った。
そして、仲間の下宿に寝泊まりして、病院に行くと、今回もなぜか骨折はせず、左足首の靱帯を断裂していた。
その頃は所沢のアパートに住んでいたが、車を持っていた友人たちが入れ替わり立ち替わりやって来て、何かと面倒をみてくれた。
その年の夏休みの後半は、左足首の治療に時間もアルバイト代も費やしてしまった。
唯一の嬉しかった思い出は、一度ショーにゲスト出演してくれた当時のアイドル歌手「天馬ルミ子」が、ステージ裏で休んでいるとやって来て、
「暑いですねえ、私にも冷たい水を下さい。」
と、氷の入った大きなヤカンの水を美味しそうに飲んだ。
かなり大柄な彼女は、明るい笑顔で気さくに話しかけてきたので、写真を撮ろうよと誘うと、快くカメラに収まった。
ホットパンツ姿の彼女の横には海パンひとつの裸の私が写っていた。あれから三十年近く経つ。
【膝】
小学四年生の時、写生大会で京大の銀杏並木を描いていた。
当時は皆半ズボン姿だった。絵を描くのに飽きて、数人で遊んでいたところ、目の前でトラック(ダットサントラックだったような?)がどういう訳か穴にはまり込んで抜け出せずにいた。
そこで、小学生の有志数人が後から押したのだが、中の一人が動き出したトラックにそのまま引きずられてしまった。
もちろん、当時から運動神経が鈍いと言われていた自分なのだが、あの時は親指が荷台の端に挟まり、抜けなかったのだ。
それで、ずりずりと数メートル引きずられて左の膝をざっくりと抉るように擦りむいてしまった。四十年経った今でも、ぷっくりとケロイド状になって痕が残っている。
四十二歳の時、どうしてもバイクに乗りたくなって中型免許を取った。
高校生の頃にもバイクに乗りたくて母親にせがんだが、
「バイクなんて不良が乗るもんや。」
と、一蹴されてさっさと諦めてから二十年以上憧れを抱いていた。
その後、大学四年の春に自動車免許を取って以来、社会人になって四輪に乗り始め、それこそ全国津々浦々を走り回っていた。
距離もすごいが走り方や走る道もすごかったらしく、二年ともたず次々と乗り換えていたようだ。
二十年の間に国産車八台とBMWを四台乗り継いだが、今乗っているBMWで初めての車検を通した。
それまでの車は、車検を通すまでもたなかった。
新車で買った日産フェアレディZなど二年で七万キロ以上走り、足回りやボディがガタガタになってBMWに乗り換えたものの、そのBMWもやはり二年で七万キロ以上走り、足回りとミッションがガタガタになってしまった。
やはりスポーツカー、スポーツセダンと呼ばれる車で、林道やガレ場などオフロードを走る
のは良くないようだ。
そんな弱い四輪に業を煮やして、バイクの免許を取り、最初は中型のアメリカンバイクを買ったのだが、これが自分の大型体躯にはいかんとも小さく、オフロード車を買ってしまった。そして、納車されて相模川沿いの道を走っていたら、前の車が急停止した。
咄嗟にブレーキを掛けて避けようとしたが、凸凹の路面にタイヤが滑ってスリップダウンしてしまった。
バイクは、倒れたまま車の後に突っ込んでゆき、私は投げ出されて右膝を路面に強打した。激しい痛みが襲ったが、運転していたオヤジが出てくるなり、
「おい、大丈夫か、立てるか。」
と、聞いてきた。
同乗していたオバサンが、事もあろうにとんでもないことを口走った。
「何よ、ここは追い越し禁止よ。無理に追い越そうとするからじゃないの。」
あまりの言いがかりに唖然としてしまった。
さらに、そのまま車に乗り込んで走っていこうとするオヤジにも呆れて、思わず叫んだ。
「ああ、あのね、このまま行っちゃうつもりなの? 救急車と警察呼んでよ。足の骨が折れたみたいだし、バイクもほら、ハンドルがあんなに曲がっちゃって動かないよ。」
渋々車から出てくると、近所の工場に電話を掛けに行ったようだった。
その間も、オバサンは、後から突っ込んだバイクが悪いとぶつぶつ言うものだから、頭にきて言った。
「あのね、誰がこんなところで追い越しなんかすると思うの? そもそもそっちがこんなところで急停止するからじゃないか。バイクも車も急には止まれないんだよ。いったい何でこんなとこで急ブレーキ掛けたの。」
「そんなの知らないわよ。私が運転してたんじゃないんだから。」
実に勝手な言い分だった。
よく周りを見ると、どうやらすぐ上を通る道路に入るつもりで側道を見つけ、入ろうと急停止したらしい。
だが、その側道は一方通行の出口だった。
やがて電話を掛けて戻ってきたオヤジは、一方通行進入禁止の標識をちらりと見て、何も言わずに車に乗り込んでしまった。
ものの数分で救急車がやって来て、担架を使わずに乗り込むと、またすぐにパトカーもやって来た。
事故処理は警察にまかせて、ピ〜ポ〜ピ〜ポ〜と初めての救急車に乗った。
愛川町の病院に運ばれて行ったが、土曜日でもあり、担当の医師も不慣れのようだった。
「今日は、病院は休みでレントゲンも撮れないんで、自宅の近所の病院で治療してください。」
と、じゅくじゅく血の滲む傷口にガーゼと絆創膏をペタンと貼って、診察室から追い出されてしまった。
「取り敢えず一万円戴いておきます。救急なので、あとで精算して差額はまた取りに来てください。」
一万円受け取ると、シャッとカーテンが閉められた。
呆れるほど冷淡な扱いだった。
待合室にパトカーの警官がやって来て、簡単な事情聴取を行ったが、車のオヤジの言い分がとんでもない事になっていた。
しかし、警官は分かっていたようで、呆れたように笑っていた。
「あのう、向こうさんの言い分は、アンタがバイクでわざとぶつかってきたって言ってるけど、そんな訳ないよね。」
「はぁ? 今日納車されたばかりの新車のバイクで当たり屋やるようなアホと違いますよ。」
「そりゃ、確かに、あちらさんの言い分を聞いていて、変だなとは思ったけど、一応両方の話を聞かないとね。で、向こうの車の傷はちょこっとあるけど、オタクのバイクはぐちゃぐちゃに壊れてるから、損害賠償は請求しないって言ってるけど、どうなんだろうね。バイクの方が弱いから、形としてはバイクが被害者になるんだけど、状況が後ろから突っ込んでるんでね、一方的にバイクが被害者とは言えないんですよ。」
「ま、後は保険屋さんにまかせるしかないでしょ。」
と、そこはあっさりと警官は引き上げていった。残された怪我人は、ヘルメットとバッグを持って痛む右脚を引きずりながら、病院を出た。近くに屯していた子供達に尋ねた。
「ねえ、君たち、ここどこ? 救急車で運ばれてきたんでどこだか分からないんだよ。」
「は? あはぁ、愛川町。」
「近くにバス停ない?」
「向こうの道に出ればある。」
「あ、そう、あんがと。」
全く膝に力が入らない。
それでも何とかバス停までたどり着くと、海老名駅行きのバスに乗った。
駅の階段を上り下りするのが実に辛い。
海老名から相鉄線で横浜まで行き、延々と歩いて東横線の綱島まで乗って、さすがにそこからはタクシーで帰った。
家に着いて、最初にバイク屋に電話する。
「今日、納車してもらったバイクね、三時間後にグッチャグチャになっちゃった。」
「はぁ? 何ですか、それ。どこでですか?」
「相模川沿いの道で、国道一二九号の高架の下あたりに置いてあるから、取りに行ってもらえるかな。」
「分かりました。じゃ、明日取りに行きますけど、怪我は大丈夫ですか?」
「うん、初めて救急車に乗ったけど、行った病院がひどくてね、ろくに治療もしないで一万円ふんだくって追い出されちゃったよ。右膝がすごく痛い。」
と、後はバイク屋さんにまかせて翌日の日曜日は、薬屋で買ってきた絆創膏と傷薬で簡単に処置をした。
そして、月曜日、朝から成田まで行き、タイ航空の飛行機でバンコックに旅立ち、アユタヤ寺院の急な階段を上り下りしたり、象に乗ったりして遊び、一週間の社員旅行を終えて日本に帰ってきて病院に行った。レントゲンを撮って写真を見ながら医師は言った。
「ありゃ、この十字靱帯の根元が剥離骨折してる。あぁあ、それに、膝全体がぷっくり腫れちゃって、水が溜まってるなあ。」
「へっ、剥離骨折って、何、骨が折れてたの?」
「うん、骨折って言っても、ポキンと折れる骨折とちがって、この中の靱帯の根元がベリッて裂けちゃったんだね。で、何、この怪我して一週間、何してたの?」
「うん、タイに遊びに行って、象に乗ったり寺院の階段上ったり下りたり市場をうろうろしてた。あ、チャオプラヤ川で延々八時間も船に乗ってたけど、あれってずーっと景色が変わらないのね。んでね、コブラを彫った握りの杖を買ってずっと使ってたけど、あれね握り具合が悪くて手が痛くなっちゃった。」
「おいおい、無茶するなあ。
骨折れてんのにそんな歩き回るか。
ほれ、見ろよ、この裂けた箇所にもう新しい骨が盛り上がってきてるよ。こうなると元通りにはならんぞ。」
「えっ、そうなの。歩けなくなる?」
「うーん、この周りの靱帯もちょこちょこ切れてるみたいだから、骨自体は安定しないし、周りの筋肉がついて完全に安定するまで三・四年はかかるかもね。」
「うえぇ、そんなにかかるの。」
「早く治そうとするなら、手術で人工靱帯入れることもできるけど、手術する?」
「やだ。」
「だったら、気長に付き合いなさい。」
「へ〜い。」
以前からちょくちょく通っている整形外科で、気心の知れた医師だけに、言うことが時折辛辣になる。
「それにしても汚い傷口だなあ。こんな水の溜まった膝なんか見ろよ、人間の脚じゃねえぞ。」
「うるへぇ、とっとと治療しろい。」
「痛くしてやっからな。覚悟しろ。」
「い、いった〜い!」
「ざまあみろ。」
と、このような会話が治療室から待合室に聞こえていたそうな。
結局、膝の状態が完璧になるのに、五年はかかったようだ。だが、その五年目に、追い討ちを掛けるかのような怪我をした。
秋の雨上がりの爽やかな日に、山梨県藤野の山奥にある軍刀利(ぐんだり)神社のカツラの黄葉を愛でようとバイクで走って行った。
朝露に濡れた草を踏みつつ甘いカツラの匂いに包まれて仄かに色付いた黄葉を楽しんでいた。
同じ時に訪れていたスイス人の親子連れに、カツラの甘い匂いの話や日本の美しい紅葉の話をして喜んでもらえたようだ。
またどこかで会いましょうと別れておもむろにバイクを狭い坂道に押し出した時、崖っぷちの方が濡れて緑色に光っているのに気が付いた。
苔だろうな、苔は滑るだろうな、苔で転けたら洒落にならないだろうなと反対側の端を行こうとしたその時だった。
斜めに通っているゴムの配水管に前輪が乗った瞬間、ちゅるんと滑り、ハンドルが思わぬ方向、即ち崖縁の方に向いてしまった。
慌てて逆に押しやると今度は苔に乗ってしまい、再びちゅるん、すると車体が右側に傾きあわやこっちの体が崖の外に放り出されそうになった。
仕方なくまたハンドルを逆に切って車体を立て直そうとすると今度は後輪が苔に乗ってちゅるりん、狭い坂道そんなに滑って何処へ行く? と、前輪が崖縁からガクンとはみ出してしまった。
一緒に崖下へ転落したら命はない。
咄嗟にバイクを倒れるに任せて坂下の方に跳んだのだが、何分巨大なバイクに巨大な人間だから動きが傍目には緩やかに進行したように見えただろう。
だが重力は正直である。軽やかに着地した気になっていたが、膝に強い衝撃が走った。
バイクを見ると、哀れにも仰向けに近くひっくり返り、虚しく後輪が回っていた。エンジンを切って引き起こそうとするがびくともしない。
先ほど別れたスイス人の旦那が駆けつけてくれたので、力を合わせて一旦サイドスタンドを出せるまで起こし、呼吸を整えて一気に前輪を崖の縁から引っぱり上げた。
車体には殆ど損傷はなく、トップケースの横に擦り傷が付いた程度だった。
エンジンも直ぐに息を吹き返し、気遣うスイス人に再び別れを告げて坂道を下っていった。
そして彼らの姿が見えない所まで来た時、路肩にバイクを停めて裾を捲って右膝を見ると、ものの見事に古傷の真上を抉るように擦り剥いて血が滲んでいた。
そんな右膝の古傷と新たな傷の合同炎症もあり、併せて庇う負担で左膝も疼き出した。
それまでは、よく歩き方がおかしいと言われていた。
両足首の靱帯を切っているが、両方バランスよく切っているので、両足で真っ直ぐ歩けるが、右膝の十字靱帯根元の剥離骨折以来、どうしても右足を引きずるような歩き方になっていたようだ。
そこにきて今回の新たな傷でまた右足を引きずることになるかと思ったが、それをかばう左膝も痛くなったので、これまたバランスよく両脚で歩くことができるようになった。
これこそ、怪我の功名なのか。
それにしても両足首に両膝とまんべんなく怪我をしたものだ。
【腰】
三五歳の時、体重のピークを迎えた。
二十代終わりまで六十キロ前後と風が吹くとそよそよと靡きそうな軽い体だったのだが、三十路に入った途端ブクブクと太りだし、とうとう九十五キロにまでなった。
実に二十代の一・五倍の体重となる。
その頃、横浜の港北に旨いラーメン屋を見つけ、いろいろな人を連れて行ったりしていたが、自分でもほぼ毎日の如く通って、大盛りのコテコテ脂大目を注文して、スープも全部飲み干していた。
通勤の帰りにどうしても立ち寄ってしまうのだ。
そこは「究極ラーメン横浜家」の一号店だったが、口コミと私の宣伝もあったのだろう、あっという間に行列のできる店になり、二年もすると、あちこちに支店を出し始め、今や大手ラーメ
ンチェーン店になってしまった。
そのラーメンの食べ過ぎもあって、高コレステロール、高中性脂肪の高脂血症と診断され、おまけに脂肪肝との診断結果が出てしまった。
そこで、一念発起してダイエットに挑戦するのだが、まずはラーメン絶ちをして一切の脂肪分を摂らず、肉と魚も絶ち、温野菜とコンニャクとトコロテンを毎日食べ続けた。
栄養の偏りを考慮して、嫌いな納豆をいやいや食べた。
そして、運動せねばと武蔵小杉のフィットネスクラブのプールに通い、毎日クロールと平泳ぎで二キロ泳いでいた。
三ヶ月経って、体重は八十五キロまで落ちたが、そこから全く体重の変化が無くなった。
そこで、ようやく食事を普通に戻し、魚や肉も食べるようになったが、以前より脂肪の摂取を極力減らす努力はしていた。
その後、三十八歳あたりまで食事の制限はしていたものの、プールでの運動は相変わらずほぼ毎日二キロ泳いでいたら、上半身の筋肉、それも肩と背中と脇腹の肉がムキムキになり、胸囲が驚異的に増えて百二十五センチにまでなった。
そのためスーツが次々と着られなくなり、結局毎年作り替えるのだが、あまりにも無駄に思えて、体の方を作り替えることにした。
それまで二キロ泳いでいたのを一キロに減らし、毎日通っていたのを、週二回に減らした。
それで何とか胸囲を百十五センチまで落としたが、一番太っていた時に作ったスーツがブカブカになってしまった。
数えの四十二歳の本厄の年に川崎大師で厄よけのお札を一万円で買い、日本中を走り回って巨樹の撮影の仕事をした。
その時はBMW三二五だったが、四月二四日から始めて九月十日までに五万五千キロを走破した。
四月の撮影行脚の前にタイヤを新品に換え、七月に坊主にして、同じ店でタイヤ交換したのだが、店員が売り上げ記録を見てびっくりしていた。
「あ、あれ、確かこのタイヤ四月に入れましたよね。」
「うん、そうだよ。」
「えっ、さ、三ヶ月でもう坊主ですか。一体どこを走ってきたんですか?」
「日本中、本州、四国、九州をぐるぐる走ってきたんだよ。」
「ふわぁ〜、すごい。」
「やっぱり日本製のタイヤは、このドイツ車には合わないみたい。
どうも腰砕けしてしまうんだけど、サイドウォールが弱いのかな。
だから、ピレリにしてくれる。」
実際のところ、走る道が林道やガレ場なだけに、タイヤの銘柄はどうでもよかったのかもしれない。
そして、後厄になり、同じく川崎大師で厄よけのお札を買ったのだが、その時ケチって、半額の五千円のを買った。
それが起因したのかどうか定かではないが、お札を買った一週間後、プールで泳いで帰ろうとしたとき、階段を下りようとして足を下ろした途端、ちゅるりん!と滑って両足が高く上に跳ね上がり、腰から落ちて階段の角に左腰をまともに打ち付けた。
一瞬目の前が真っ暗になり、悶絶してしまった。
悲鳴を聞きつけて、プールの監視員が駆け寄ってきた。
抱えられるようにプールサイドのチェアにうつぶせになったが、腰の具合を見た監視員の話では、くっきりと階段のタイルの跡がついてぺっこんと凹んでいたらしい。
何とか腰をかばいつつ家に帰ったものの、翌日いつもの整形外科に行くと、患部を見て医師は笑った。
「あ〜らら、へこんでる。それに、すっごく腫れてる。こりゃ、骨盤もゆがんでるな。お気の毒ぅ。ははは。」
親しき仲にも礼儀ありだろう。
自分では直接見られない部位なだけに、どれだけゆがんでるのか気になって仕方がなかった。
「それにしても、アンタはよく平気でいられるなあ。普通の人ならとても痛くて動けないような怪我でも、颯爽とバイクに乗って走ってくるもんな。あんまり痛みを感じない体質なんかいな。」
「それって、暗にボクの神経が鈍いんだって言ってない?」
「思ってるけど、言わない。」
「アホ。」
いつもそんな会話のある診察室だった。
そして、その五年後、今度は腰に魔女の一撃を受けてしまった。
東海道から北陸道、中央道をぐるりと巡り、三日間でおよそ千五百キロをバイクで走って帰ってきたのだが、どうってことない距離だと楽観していた。
荷解きを済ませておもむろに台所に立ち、食事の用意をしようと中腰になった時だった。
何となく喉がむずがゆくなって、ゴホン!と咳をした瞬間、腰の辺りでじゅりっと音がして、ズッキーン!!グギッ!・・・(イッタア〜イ!)
と、声を出すこともできないまま、へなへなとその場にへたり込んでしまった。
何が起こったのか一瞬分からなかったが、ちょっと体を動かそうものなら、ズキッ、立ち上がろうと脚を曲げると、ズキッ、悲鳴を上げようにも声を出そうとすると、ズキッ、悶絶状態でしばらく蹲っていた。
それでも何とか布団の所まで行こうとすると、少し動く毎に腰から背中にかけてものすごい激痛が電撃的に突っ走る。
ひっ、ひゃっ、うぇっ、おぇっ、うぐっ、・・と声にならない声を上げながら這いずるように布団まで辿り着いた。
俯せになったまま、いつしか意識を失っていた。
あまりの激痛に失神したらしい。
気がつくと、煌々と電灯のつく部屋の外にはうっすらと黎明が訪れていた。
俯せの姿勢が苦しくなって、仰向けになろうとするが、少しでも動くと激痛が走る。
ゆっくりゆっくり、超スローモーションの如く激痛に耐えながら体を動かしてゆく。
指先だけは何とか動くので、枕元にあった携帯電話をやっとの思いで手にし、会社に出られない旨をメールで送ろうとした。
早朝の部屋の中、巨大な物体が身動きできずに指先でメールを打つ。
ピピピ、ピピ、ピピ・・・と虚しい音が静かな部屋でいやに大きく響く。
「ギックリ腰で身動きできず。出社不可能」
送信して、すぐにまた意識を失い、数時間後着信音が鳴った。
「お大事に」
携帯電話の小さな窓に短い電文が微かに読みとれた。
そして、また意識の暗闇に紛れ込む。
次に気がついたのは再び夜だった。
尿意を催したのだが、トイレに行くのがまた難儀なのだ。
腰に負担を掛けない動きがこれほど難しいものだとは思わなかった。
というより、あらゆる体の動きに腰が重要な役割を果たしているのだ。
普段意識しない分、このような時には腰が際だって自己主張をし続ける。ものの数歩、数秒で行けるトイレまで一山越えるぐらいの時間がかかる。
柱につかまってゆっくり立ち上がるも、歩くのもままならない。しかも一旦立ち上がったら次に屈むのが一苦労なのだ。
やっとの思いでトイレに辿り着くも、屈めないし下を向けない。
手探りでズボンを下ろすと便器に腰掛けるつもりで少し腰を落とした。
その瞬間、ズッキーン!悶絶状態で一気に便器の上にデン!と腰を下ろすと、その衝撃で再びズキッ!一挙手一投足にズキッズキッズッキーンでは堪ったものではない。
結局、三日間布団の上で巨大なマグロが転がっていた。
何とか動けるようになって病院に行こうとするが、当然バイクでは無理と思い、車に乗り込もうとした。
タダでさえ低い車体ゆえ、屈めない体が乗り込むのはちょっと難しい。
だが、幸い幌の屋根を下ろせるカブリオレだったので、鯱張った体をそろりとシートに滑り込ませることができた。
そして走り出したものの、マニュアルシフトではクラッチとブレーキを踏むたびに激痛が腰に走る。
車と激痛の猛レースを繰り広げながら病院に駆け込んだ。
受付で立っているだけでも激痛が襲い、気の毒に思った医師が順番を早めてくれた。
治療台の上に俯せになって背中を見せると、後ろで医師達が驚嘆の声を上げた。
「うひゃあ、すっごい曲がってる、これじゃあ痛いはずだぁ。よく、ここまで来れましたねえ。」
感心するくらいなら早く治療してくれと心の中で叫んだものの、
「こりゃあ、すぐには骨が動かないから、しばらくコルセットで締めて様子を見ましょう。絶対安静にしていてくださいね。また、明日も来て下さい。」
安静にしろと言いながら、明日も来いとは酷な言い方ではないか。
と再び心の中で叫んだが、仕方なく家まで車と激痛のレースを展開していった。
一週間ほどで、何とか杖を頼りに歩けるようになり、二週目には杖もとれたが、腰の辺りの引きつるような軽い痛みが続く。
御陰様で体重が五キロ減り、痛いダイエットになったようだ。
ギックリ腰は「魔女の一撃」とも言うらしいが、聞くところによると出産の痛みに似ているらしい。
だが、男の自分は出産の経験もなければ、予定もない。
千五百キロに及ぶバイクの旅の後は、長い暗闇の中を痛みから逃避する心の旅路となってしまった。
【胸、顔、玉、肘】
四十四歳の時、小さかったヤマハのビラーゴから一回り大きなドラッグスターに買い換えて、そのバイクに一年半ほど乗り大いに気に入っていた。
ある秋の日の朝、会社に行くべく家を出て丘を下り、大通りの左端をトロトロと暖気をしながら走っていた。
まだ家から二百メートルほどしか来ていないし、エンジンも冷えてチョークを引きながらだから四十キロも出ていなかった。
信号の対向に右折してこようとする軽トラックが見えた。
当然、こっちが優先だし、信号もまだ青なのでそのまま進んで行った。
突然、その軽トラックが急発進して強引に右折してきた。
二車線ある左端を走っているにもかかわらず、真っ直ぐこっちに向かって突進してきた。
「うっそー!」
と叫ぶと同時に、急ブレーキを掛けたが間に合わず、軽トラックの横っ腹に突っ込んでいく格好になった。
激しい衝撃で跳ね飛ばされ、地面に投げ出された。
ヘルメットのシールドが割れて飛び散っていた。
鼻の奥にきな臭い感覚があり、ふと見ると地面に血が広がっている。
「あれ、脳味噌が流れ出したかな?」
鼻を触るとヌルッと血が指に付いた。
「うわ、鼻血か。」
ヘルメットを外して横に放る。周りに人が駆け寄ってきた。
バイクの方を見ると、無惨にへしゃげたハンドルとタイヤホイールが目に入った。
「ありゃりゃ、あれじゃ全損かな。」
「おい、大丈夫か、動かない方がいいぞ。」
「あ、あのすみません、救急車呼んでもらえますか。それと、あのバイクのキーを抜いてこっちに下さい。ついでに、警察も呼んでくださいね。」
地面に横たわったまま、鼻から大量の血を流したまま、あれこれと周りに集まった人たちに指示を与えていたようだ。
軽トラックを運転していたらしいお爺さんがオロオロしながらウロウロしている。
やがて、救急車とパトカーが到着して、担架に乗せられ、人生二度目の救急車でピ〜ポ〜ピ〜ポ〜鶴見の橋爪病院に運ばれていった。
お気に入りのレザーパンツをジョキジョキとハサミで切られ、上着も脱がされて上半身裸にされてあちこち検査された。
「どこが痛いですか。出血は鼻からだけのようだけど、ヘルメットを被っていたから頭部は大丈夫みたいね。手足の痛いところはありますか。」
「あぁっとね、胸が痛いし、股が痛いな、それと顔も痛い。あとは別に痛くないけど・・・。」
「胸は何かで打撲してるから、ひょっとしたら肋骨にヒビが入ってるか折れてるかもしれんな。顔面も強打していて、ちょっと陥没骨折してるかもしれないね。あとでレントゲン撮るからね。それと、右の睾丸がえげつなく膨れあがってるけど、痣の様子からすると何かが当たって恥骨と挟まれたようですね。こっちの方は、うちじゃなくて別の泌尿器科に行って診てもらった方がいいな。」
結局、その場は応急処置をしてもらって、検査結果を翌日受けに来るように言われた。
車椅子に乗せられて待合室に行くと、警官と軽トラックのお爺ちゃんがいた。
「ああ、歩けるようなら、鶴見署まで来てもらえるかな。事情聴取したいから。」
パトカーの先導で、軽トラックに乗せられて鶴見署まで行く間、お爺ちゃんは盛んに恐縮して謝り続けていた。
署では、軽トラックの前方不注意ということで、百パーセント過失を認めていたが、後の保険会社の話では、相手の保険会社が六対四でバイクの方が悪いことで言ってきたという。
そこでそんな莫迦な話があるかと喧嘩が始まり、最終的には九対一の相手側過失責任で交渉成立したらしい。
黙っておとなしくしていると、保険会社はとんでもないことをやらかすものだ。
警察署から家まで軽トラックで送ってもらい、またもやバイク屋に電話して、ひん曲がったバイクを取りに行ってもらったが、今回は近所ということで、事故後すぐに処理をした。
結果は修理不能の全損だった。
そして、会社に電話して交通事故に遭って行けない旨伝えると、布団に潜り込んでう〜んう〜んと唸って寝込んでしまった。
午後になって軽トラックのお爺ちゃんが果物を持って見舞いに来たが、殆ど起きられず相手もできない状態に陥っていた。
そして翌日、鶏卵大に膨れあがった右の睾丸が歩くたびに太股に当たりずーんと重い痛みが走るのを我慢して、鶴見の泌尿器科病院に行った。
そこの医者は実に無礼千万で、交通事故の衝撃でバイクのハンドルと恥骨のサンドイッチになって睾丸が腫れ上がったと説明しても、端から信用せず、莫迦にしたような笑い顔で言った。
「この腫れ具合は、何か変なことして病気をうつされたんじゃないの?」
「だから昨日の事故で玉が挟まれたんだって言ってるでしょ。」
「そうかなあ、ここは川崎が近いから、どうせソープランドで遊んで来たんじゃないの。ま、アンタを信用しないってことじゃないけどね。」
「何だよ、変な言いがかりつけないでよ。ちゃんと事故証明もあるんだし、顔にも傷があるし、ほら、胸にも打撲で青あざできてるじゃない。」
「ま、そこは確かに事故での傷かもしれないけど、このキンタマはねえ、変な病気をうつされたから事故にかこつけて同じ経費で治療しようと考える人もいるからね。」
あまりの無礼な医者に、いい加減頭にきてベッドから降りて帰ろうとすると、慌てて言い直した。
「まあまあ、この恥骨の部分に青あざがあるから、事故で打ったって事になるかな。ガーゼを水で濡らして冷やしておいてね。また、明日もいらっしゃい。」
誰が行くもんか! その病院には二度と行かなかった。
その足で、救急車で運ばれた橋爪病院に行き、検査結果を聞く時に、無礼な医者の事を話した。
「そりゃひどい医者だなあ。ま、医者にもいろいろな人がいるからね。そんなところは行かなければいいんだから、我慢してください。で、検査の結果、肋骨にはヒビが入ってますね。ちょっと治るまで時間がかかるかもしれませんが、当分コルセットをつけて固定しておきましょう。それと、顔の骨にもヒビが入ってます。こっちはコルセットもギブスもできないから、そのままあまり強く押さえないようにしていればそのうち治りますから。」
「このタマタマはどうなるでしょう。」
「それは冷やしておくしかないでしょうね。すっかり大きくなっちゃって、痛そうですね。お気の毒です。」
鶏卵大のタマタマは、その後一週間ほどで元の大きさに戻ったが、機能的には「片玉無用」になってしまったようだ。
事故の時、ハンドルのグリップエンドと恥骨とで片玉をサンドイッチにして潰したらしい。
人間の体はよくしたもので、睾丸を始め、女性の卵巣、腎臓、肺臓と対にあるものは片方だけでも十分機能するものなのだ。
もっとも、私の片玉は製造能力が半分に落ちて、回復力も微力になったようだ。
さしずめ「睾丸の微中年」といったところか。
事故の保険金で、大型免許を取りに行き、ついでに大型バイクも買ってしまった。
ヤマハのロイヤルスターという千三百の排気量の大型アメリカンバイクだが、一年後にまたもや転倒事故を起こしてしまった。
納車直後に事故で壊したオフロード車を修理して乗っていたが、大型のBMWのオフロード車を買ったので、そのヤマハ・レイドを友人に譲った。
そしてそのレイドとロイヤルスターで奥多摩の小菅温泉に行こうと走っていた。
ワインディングを快適に倒し込んで走っていたが、如何せん大型アメリカンバイクでは山道曲道のコーナーでガリンガリッとステップが路面を擦ってしまう。
それでも果敢にコーナーを攻め立て、駆け抜けていた。
小菅にほど近くまで来た時、前方の緩いカーブをめがけてアクセルを煽った。
次の瞬間、路面の半分まで砂が浮いているのに気が付いた。
咄嗟に反対車線に入り込んで曲がろうと思い、倒し込んだ。ガリン! ステップが路面を擦って反射的にちょっと車体を起こしてしまった。
「あ、砂が・・・」
と、気づいた時は浮き砂に乗っていた。
しかも車体はステップが擦らない程度に倒し込んでいる。
真っ直ぐ行けば、コーナーから飛び出してしまう。
無意識でブレーキをかけたようだ。
前後のタイヤが虚しく滑るのを感じた。
グワッシャーン! スローモーションのように倒れる。
右足が車体の下に挟まったまま人馬もろとも路面を滑走する。
このままゴロンと体が回転すると挟まっている脚の骨が折れてしまう。
右肘で突っ張って体が回転しないように支えた。
ズザザザザードン! 側溝に前輪が落ちて止まった。
後ろを走ってきた友人が慌ててバイクを停めて駆け寄ってくる。
「だ、大丈夫? 動ける?」
「ああ、右足が挟まって動けない。ちょっとこの重たい図体を持ち上げてくれる?」
少し車体を持ち上げるとすっぽりと右足が抜けた。幸い小さなロールバーで右足が潰れるのを防いでくれたようだ。
「あぁあ、この砂ひどいよな、あっという間に滑っちゃったよ。」
と、ぶつぶつ言いながらタンクの辺りを見ると、ガソリンがドボドボ流れ出している。
慌てて引き起こしたらタンクの横っ腹に大きな穴が開いていた。
三百四十キロの重量級バイクだが、二人で意外に簡単に起こせたようだ。
更に点検してみると、右足を守ってくれたロールバーがひん曲がってブレーキペダルを押し曲げ、ステップボードを押し上げている。
ラジエターのどこかが破れたのか冷却水が漏れている。
ハンドルの右のミラーがどこかに吹っ飛び、ブレーキホースが千切れてブレーキフルードがポタポタ漏れている。
当然ブレーキレバーは虚しくカコンカコン空を切る。
路面には漏れたガソリンと緑色の冷却水とブレーキオイルと赤い液体が混ざり合って広がっていた。
赤い液体?
「あ、血が出てる!」
言われて初めて気が付いた。
革ジャンの右の袖口からポタポタと真っ赤な液体が滴り落ちていた。
そこでようやく自分の体の点検を始めた。
韓国のソウルで買った厚手の革ジャンが、路面を滑走する際の衝撃をかなり吸収してくれたようだ。
背中の部分と右袖に相当な擦り傷がついており、右肘部分は無惨にもボロボロに破れていた。
革ジャンを脱いでシャツの袖をを捲り上げると、右肘に直径一センチほどの穴がポッコリ開いて、真っ赤な血が泉の如く湧きだしている。
「うぅわ、なんじゃこれ。ぎょうさん血が出てるなあ。」
「うわわ、痛そう。」
「あぁ? そんなに痛みは感じないよ。ここまで深いと神経もなくなっちゃうんかな。」
「他に痛いところはないの?」
「うん、全然痛くない。肘以外は無事みたい。」
ティッシュペーパーを肘の穴に押し当てて革ジャンを着込み、自走可能か確認する。
ひん曲がったロールバーを蹴っ飛ばしていると、何とかステップボードが元に戻り、フットブレーキも回復したようだ。セルを回すと不安定ながらもエンジンが動き出し、ゆっくり走る分には支障がないようだ。
「こうなっちゃあ、今から小菅の温泉には行けないよね。」
「そりゃそうだ。」
「じゃ、戻るか。」
事故車の運転は友人に任せて、私は昔乗っていたレイドに跨った。
ゆっくり走ってはいても、右に倒そうとするとタンクの穴からガソリンがバシャバシャこぼれる。
「ねえねえ、どっかでガムテープと使い古した石鹸調達してよ。」
「へ? 石鹸? 何するの?」
「ガソリンタンクの穴を塞ぐには石鹸がいいって、昔からの言い伝えなの。石鹸はガソリンに溶けないからだと思うけど。」
友人のバイク歴は相当古いようだ。
小さな集落の雑貨店に入り込んだ。
「すみません、ちびた石鹸いただけませんか。」
「はぁ? 新しい石鹸なら売ってますけど。」
「いや、新しいのはだめなんです。使い古しのちびた石鹸でないとだめなんです。」
店のおばさんは怪訝な表情で奥の洗面所からちびた石鹸を持ってきた。
「こんなんでいいの?」
「はい、十分です。ありがとう。」
外に出ると、通りかかった工事車のおじさんにガムテープを分けてもらう。
友人は、ちびた石鹸を揉んで柔らかくすると、タンクの穴に当てて塞いだ。その上からガムテープを貼り付けて、応急処置としては完璧だった。
「あと、ラジエターからどんどん漏れてるから、時々補充しないとオーバーヒートしちゃうよ。ペットボトルの水でも買っておくか。」
再び雑貨店で水を買おうとしたが、ウーロン茶しかなかった。
それからトロトロと走りながら上野原まで戻り、甲州街道をひたすらゆっくり走って八王子の友人行きつけのバイク店まで辿り着いた。
途中何度も止めて、事故車に冷たいウーロン茶を飲ませていた。
「どうする? ここにバイクを置いて、俺が横浜まで送ろうか?」
「いや、奥多摩からここまで走ってこられたんだから、横浜まで走れるだろ。乗って帰るよ。」
「大丈夫? ホントに大丈夫?」
心配する友人をよそに、ギクシャクしながら馬鹿でかいバイクで走り出した。
いや、歩き出したとでも言おうか。そう思えるほどの速度だった。
リアブレーキしか使えないので右手はアクセルを捻るだけでいいのだが、肘に穴が開いているせいか、右手の握力が無くなっている。
十六号線から青葉に抜け、勝手知ったる裏道を通り、近所のヤマハの店の前に辿り着いた時、ブッシュンと、最期のため息をつくかのように、キーを捻らずともエンジンが鼓動を止めた。
店の中から店員が飛び出してきた。
「うわあ、こんな状態でよく走ってこれましたねえ。」
「うん、ホント、よく頑張ってくれたよ。ここに着いた途端、ブッシュンって止まっちゃったもん。」
動かなくなったロイヤルスターを店に預け、歩いて丘を登り、アパートのカギを開けた途端、肘に痛みが甦ってきた。
「い〜て〜て〜て〜て〜・・・」
人間は緊張していたり、何かに集中していると、痛みを忘れるようだ。
おそらく同時に全部の面倒を見きれないから、どっかの神経回路を遮断するのだろう。
ボロボロになった革ジャンを脱ぐと、右袖は出血を全部吸収したらしく、ずっしりと重い。
押し当てていたティッシュも血でべとべとになっていた。
取り敢えず絆創膏を貼って応急処置をした。
翌日、いつもの整形外科に行くと、相変わらず口の悪い医師が笑いながら言った。
「あぁ、またやっちゃったの。ありゃ、今度のも汚い傷口だなあ。毎度のことだけど、もう少しきれいな傷を作れないの?」
「そんなん、きれいとか汚いとか意識して怪我なんかするかいな。こっちは切羽詰まってんだから。」
「ははは、冗談冗談、で、今回は膝は無事だったの?」
「へ、幸いなことに何ともなかったみたい。何、膝も怪我した方がよかった?」
「そこまでは言わないけどね。期待はしたかも。」
「何だよ、やっぱ、ボクみたいな患者は、いいお客さんなんだろうね。」
「うん、そうそう。」
認めてしまった。
確かに、私はどこの店に行っても、上客のようだ。
バイク屋、車屋、ラーメン屋、スーツ屋、そして病院にとっても同様のようだ。
人間の怪我は、何とか治ってゆくが、壊れたバイクの修理費で、かなりの人数の福沢諭吉さんたちが団体で旅立っていった。懐にはかなりの痛手だった。
【頸・首】
一九八四年頃、上野の国立科学博物館で仕事をしていた。
化石展示で太古の恐竜の骨の化石や巨大なアンモナイトの化石を壁面に埋め込む作業をしていた。
ステゴサウルスの大腿骨の化石を壁面の台の上に置くので、手を借りようと辺りを見回すと、誰もいなかった。
誰か来るのを待っていればよかったのだが、せっかちな性格ゆえ、一人で持ち上げることにした。
百キロはあろうかというその化石を両手いっぱいに広げてグイッと持ち上げた瞬間、何だか首の後ろの方で、グジッと変な音がした。
その時は、あまり気にせずそのまま持ち上げてドンと台の上に置いた。
その日、作業を終えて帰る時、何となく首にいやな感覚があったが、さほど痛むというほどではなかった。
その頃、なぜか軽自動車のミニカ・エコノに乗っていた。
それは、自分で注文して買った車ではなかった。
たまたまカメラマンのオガちゃんと車屋に行って遊んでいた。
目の前に新車のミニカが置いてあり、試しに乗ってみたら、座高一メートルにも関わらず、頭の上にこぶしひとつ分の余裕があった。
「おっ、なんだ、軽なのにアンタでも十分乗れるじゃん。これにしたら?」
「いやだよ、今のセドリックで間に合ってるよ。」
と、そこはそのままで帰った。
一週間後、会社に電話があった。
「コモリさん、車来ましたよ。」
「へっ? 何、それ。」
「この前、オガちゃんが注文しちゃえって言ったんで、注文しときました。ミニカ・エコノ・インタークーラーターボです。」
「何だよ、それ、知らないよ。」
デスクの向こうでオガちゃんはニヤニヤ笑っていた。
「なんだい、あの車、オガちゃん勝手に注文しちゃったんかよ。」
「へへへ、いいじゃん、乗れるだろ。」
と、まあ、変なオヤジの勝手な暴走で、ドタバタ騒ぎがあって、結局、無理矢理ミニカ・エコノ・インタークーラーターボを買わされてしまった。
確かに、セドリックに比べれば、小さい車でもターボが付いており、軽快にちょこまかと走ってはくれたが、如何せん、毎月どこかが壊れて、十ヶ月で十二回も入退院を繰り返していた。
オイル漏れ、白煙ボウボウ吹き出し、サスペンションボルト切断、メーター不良、ミッション不良、数え上げればきりがないほど故障だらけの欠陥車だった。
その草臥れ果てた車に、これまた草臥れた男が乗って、科学博物館から帰途についた。
昭和通りに出るところの信号で待っていたら、いきなり後ろからワンボックス車が突っ込んできた。
下りカーブの先の信号で止まっていたから、見えなかったのだろう。
慌てて避けようとしてハンドルを切り、スピンしながら横を向いた状態になった。
こっちは後ろでタイヤのきしむ音を聞き、バックミラーを見た時には後ろにワンボックスの側面が迫ってきていた。
ドンと当たってさほど強くない衝撃だったが、一瞬首がのけぞるような格好になってピキっと軽い音がした。
路肩に寄せて車から降りると、相手の若い兄ちゃんが来ていきなりまくし立てた。
「なんであんなとこにいるんですか。ボクが避けなかったらまともにぶつかってますよ。見てください。こっちの横側なんかべっこりへこんでるでしょう。オタクが百パーセント悪いって、一筆書いてくださいよ。困るんですよ、これから仕事があるのに。」
ちょっと痛みがある首をさすりながらぼんやり兄ちゃんの言い分を聞いていたが、ボケた脳細胞を駆使して兄ちゃんの言い分を解析してみると、何だかこっちが追突したように責め立てていた。
「あ、あれ、ちょ、ちょっと待って、追突したのはそっちで、こっちは被害者だよ。なんで百パーセントこっちが悪いって一筆書かなきゃいけないの。」
「え、・・・じゃ、いいですよ。あとは保険会社にまかせるから、連絡先を交換しておきましょう。」
言葉遣いは丁寧だが、言ってる内容はとんでもない言いがかりの脅迫めいたものだった。
ぶつかってきた車の側面はベッコリへこんでいたが、ぶつけられたミニカの方は、一見何の傷もない。
ちょうど右後ろの角が当たったようで、へこみもない。
連絡先を書いたメモを受け取ると、丁寧な脅迫者の兄ちゃんはさっさと走り去っていった。
半分朦朧としながら家に帰り着き、さっさと布団に潜り込んで寝たのだが、翌朝、目覚めたものの、起きあがることはできなかった。
首が全く動かない。寝返りを打とうとすると、ズッキーン。
起きあがろうとすると、ズッキーン。
歩こうとすると、ズッキーン。
座ろうとするとズッキーン。
一挙手一投足に、ズッキーンズッキーンが付いて回る。
魔女の一撃の「ギックリ腰」の根源が、この時に芽生えたようだ。
日曜日でもあり、ちょうど友人が遊びに来る時だった。
十時頃、ピンポーンとチャイムが鳴った。
「よお、ダンナ、いるか。」
「ああ、いるよ。いいときに来てくれた。動けないんだよ。助けてえ。」
「なんだよ、どうしたの。」
「昨日、科学博物館で重たい化石を持ってちょっとおかしくなって、すぐ後に車で追突されて、もっとおかしくなって、一晩寝て起きたら起きられなくなってた。今、起きたいんだけど起きられないから起こしてくれる。オシッコしたい。」
「なんだ、しょうがねえなあ。」
と、ぶつぶつ言いながらも助け起こしてくれた。
この友人は大学一年からの付き合いの親友で、大型人間の私の対極にある小型人間だった。
昔から、親友と呼ぶ人間は、いずれも小柄だった。
大きい者同士より大小の付き合いの方が気が合うようだ。
ミニカの前に乗っていたセドリックは、彼が乗っていた。
「すまん、このままボクを病院に連れてって。」
電話帳で調べて鶴見の橋爪病院に連れて行ってもらった。
その時が、その病院との最初の出会いだった。
レントゲンを撮って診察をしたが、頸部挫傷というだけで、湿布薬をペタンと貼っておしまい。一週間ほどで痛みは治まったが、以後、何かと事あるごとに首がカッチンと固まってしまい、ズッキーンズッキーンの痛みのお祭り騒ぎが起こっていた。
思えば、年に三・四回、季節の変わり目に痛くなるのが、年中行事になっていたようだ。
十年ほどは毎年の恒例だったが、九十年代に入り、平成の代になってからは、徐々に回数が減り、年一回ほどになっていた。
そして、平成十六年、弥生の寒い日に、久しぶりのカッチン、ズッキーンズッキーンが訪れた。
いつも通っている整体院で、この首の痛みの経緯を説明したが、結論は明かだった。
「あちこち体中が痛むのも、すべて頸椎が起因している。つまり、ボクの首がネックなんだね。」
このダジャレは大いに受けた。
【肩】
平成十四年の十一月二十三日の誕生日の翌日、突然左腕が挙がらなくなった。
ちょっとでも腕を持ち上げると、ズッキーン!と肩に猛烈な痛みが走る。
それも、瞬間的な痛みではなく、ジーンと余韻を持った痛みなのだ。
ちょうど除夜の鐘のゴーンウォ〜〜〜〜〜ンという残響に似ている。
最初は、単なる筋肉痛かと思い、湿布薬を貼っていたが、一週間経っても二週間経っても、一向に快復する気配がない。
左手で物を持つことは、下に垂らしている限り何とか持てるが、心臓より上に持ち上げようとすると、ズッキーン!となってしまう。
バイクに乗っていて、出会った仲間に挨拶しようと左手を挙げると、ズッキーン! ジャケットの左ポケットに手を入れようとすると、ズッキーン! 料理をするのでフライパンや中華鍋を振ろうとすると、ズッキーン! 猫を左手で抱こうとすると、ズッキーン! 齢五十にして文字通り五十肩になってしまった。
人の話では、五十肩というものは、ある時突然なって、ある時突然治ってしまう。
その間、どんな治療しても絶対良くはならないと聞いていた。
そして、一年間、何とか我慢して、五十肩の痛みと付き合ってきた。
平成十五年の十一月二十三日、時報と共に、五十肩が治るかと思いきや、「延長で〜す!」という風な感じで五十一肩に移行してしまった。
近頃は、左肩のみならず、左首、左腰、左股関節がズキズキズッキーンと痛み、おまけに左側にある心臓までが、不整脈を打ち出して、下手なサンバやボサノバのリズムでスットコドッコイ、ズンドコドットコ、ポコポコペコポコ、・・・・パカパカパカドッコドンドッコドン・・・と、変調リズムで打つならまだしも、途中で三秒間ほどダンマリをきめこむ時がある。
そんなときは、まさに心臓が止まったかとびっくりして心臓が止まりそうになった。
「こらっ、動け、バカ、止まるな、動け、死んじゃうだろうが!」
と、どんどん胸を叩くと、イヤイヤながらトコトコトコトコ鼓動を打ち始める。
相変わらず下手なサンバのリズムで。
どうも、胸の中で心臓だけが独立宣言しそうな感じだ。
勝手気ままに動いているとしか思えない。
そんなこんなで、体の左半身不自由な生活が続いている。
【病床七尺】
正岡子規が「病床六尺」ならば、巨大幼児体型の私は「病床七尺」に引きこもっている。
私の「痛み」の記憶は、時系列で甦ってはこないようだ。
ひとつのキーワードを、脳細胞にインプットすると、その「痛み」を受けた瞬間の前後の状況が、データとしてプリントアウトされるようだ。
自分では意識してその状況を覚えていた筈もなく、無意識のうちにその時の環境データが、直接脳細胞に転写されたとしか思えない。
ひとつの傷痕をキーワードとするなら、それができた状況、その場所に至るまでの時間的経緯および地理的状況が映像データとなって、脳裏のスクリーンに投影される。
そのスクリーンでは、当時の出演者がその時のままで生き生きとセリフを言い、行動し、立ち居振る舞うのだ。
決して脚色された虚構の演技ではなく、現実に則した過去の時点での発言行動が再現されている。
私は、そのスクリーンを見ながら、時々巻き戻して見たりして、忠実に書き写しているに過ぎない。
ここまで書いてきて、自分が作り話のできないことに気が付いた。
嘘や虚構を作り出す能力に欠けている。
つまりは、創造力に欠けているようだ。
そのかわり、記憶力、それも無意識の記憶力に長けているのかもしれない。
それと、想像力もある程度あるようだ。
バイクで各地を走り回り、目に映る風景や出来事をそのまま映像記号として脳細胞に記録しておき、帰ってから脳内スクリーンに再生して、そのまま文字記号に変換している。
つまりは、心臓と同じく、脳細胞もそれぞれが勝手に自己主張して、勝手に独立宣言して自由気ままに活動しているのかもしれない。
自我に内包された宇宙が、どんどん膨張してゆくのを感じる。
しかし、肉体的な眠りの中では、自我の宇宙は「無」になる。
それは「夢」なのだろう。
心の「夢大陸」は、「ゼロ」の意識の中に「無限の広野」となって広がり、「夢幻の光野」にあふれるデータを無意識下に記憶しているのかもしれない。
現実の神経作用の「痛み」は、時を経れば、無痛の「心の痛み」として、長く記憶
にとどまるのだろう。
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