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あかべこ日記晩秋編
「遊びの心、心の遊び」
平成13年霜月
by 森 雲遊(くらうど)<ベベパパ>
<道は長く遠い>
冬至はまだ先なのに長い夜はなかなか明けようとしない。このままずっと夜のまま一日が過ぎるのではと不安に感じるのは日本人たる温帯地方に住む人間の証拠なのかもしれない。北極圏のフィンランドでは、冬ともなるとそれこそ一日中夜なのだ。北半球では季節柄白夜の反対になるわけで、昼なお暗い憂鬱な冬なのである。1月中旬に訪れた時は日の出が午前10時半日の入りが午後1時半で、太陽は地平線から「おっはよ!」とちょこっと顔を出すと、すぐに「ほな、さいなら!」と夕焼けの輝きを残して沈んで行く。その後3時頃まで雪明かりで何とか朧気な視界が保たれるが、その朧気な時が一番見えにくい時なのである。
そんな北欧の冬からは程遠い日本の朝の6時頃、あかべこGSに巨大アルミ岡持三点セットとシュラーフをくくりつけ、朧気な夜明け前の街角に走り出した。
近視・乱視・老眼・飛蚊症・ちょこっと網膜剥離気味の奥目では、それこそ暗中模索走行を強いられる。和歌山の川湯まで貧乏通輪に徹しようと高速道路を使わない事を決意したのだが、出だしから早朝大渋滞につかまり、箱根を越えるまで何と4時間もかかってしまった。太平洋のさざ波を眺めながら、秋晴れの東海道をひたすら走る。日差しは暖かいのだが、頬打つ風は流石に冷たい。掛川あたり
で、あかべこの走行距離が66666キロを示した。ぞろ目のキリ番ということで早速記念写真に収めた。浜名湖から1号線をそのまま行こうとして、ふといい考えが浮かんだ。混雑する名古屋を通って遠回りするより、伊良湖から鳥羽にフェリーを使って渡る方が早いのではないか、船の上で一眠りできるのではないか。ぐうたらな思いがさっさと渥美半島の先っぽに向かって駆けだしていった。
地図では長細い半島で三河湾と太平洋を見ながら走れると思っていたら、残念ながら内陸を通る道からは殆ど海は見えない。両手いっぱいに別々の海を抱きながら駆け抜けるのは私の中で「伊予のオチンチン」と呼んでいる「佐田岬半島」が一番だろう。片や伊予灘此方宇和海を遥かに見晴らしながら走る気持ちよさはタイタニックの舳先に双手を広げて立つ気持ちに似ている・・・?
地図ではちょっとの距離なのだが、42号線を豊橋から走るとフェリー乗り場のある伊良湖港まで1時間以上もかかってしまった。伊良湖灯台を眺めながら岬をぐるりと巡り、目指すフェリーの姿が見える所まで来たとき、それはゆっくりと岸壁から離れて行くところだった。タッチの差で乗り損ねてしまった訳だ。次の船まで1時間待つことになる。土産物売場をぶらぶらしているといつの間にか両手が乾物や干物でいっぱいになっていた。何やら食べたり飲んだりしているうちに出航時間となり、真っ先に船に乗り込むと、さっさと客室デッキに入ってしまった。そして1時間後、鳥羽の港に着くまでの記憶は夢の中に溶け込んでいた。
目覚めてしばらくは自分の居所がはっきりと認識できずにいた。ぼんやりと海を眺めるうちにようやく紀伊半島に着いたことが分かってきた。急かされるまま慌ただしく埠頭に乗り出し、日の沈み行く方向へ本能のなすがままに海岸道路を走っていった。最初のうちは前を行く車に付いていったのだが、途中で対向車と鉢合わせをしてしまう。車一台通れる3m程の道幅しかないのでどっちかが広い場所まで下がらなければならない。なのに、四輪車同士互いに譲らずもたもたしているので、バイクの特権を生かしてさっさと間をすり抜け、夕暮れ迫る3桁国道の薄暗いワインディングを駆けていった。紀伊長島から2桁のR42に入り込み、少し交通量の増えた道を快適に飛ばしていた。すでに闇の帳は降り、街明かりとヘッドライトを頼りに走っていると無性に孤独感が募ってくる。ヘルメットを被っていると自分の声だけが明瞭に耳に届く。最初は歌を口ずさんだりしていても、次第に歌詞を忘れ、そのうち同じフレーズの繰り返しになってしまう。そして、無言になって、時折発する奇声とも気合いともつかない声で襲いかかる眠気を振り払おうとするのだが、たまらなく瞼の重量挙げを強いられてくる。思い切って路傍のラーメン屋に飛び込み胃袋を満たしたのだが、その味の悪さで目が覚め、更に新宮で入れたガソリン代の高さで睡魔は完全に退散してしまった。
熊野川沿いの国道168号を遡るのだが、行く手は漆黒の闇が支配していた。白いガードレールの向こうには数十メートルの高さで河原まで落ち込んだ崖がある。闇を照らす一条のライトに浮かぶ白いラインを頼りにただひたすらアクセルを煽っていた。やがて川湯方面の脇道に逸れて行くと、対岸の河原で焚き火をしながらキャンプする一団が見えてきた。橋を渡ってキャンプ場入り口で料金を支払い、奥の方でバイクキャンプ仲間と落ち合った時は、出発してから12時間経っていた。長く遠い道のりだった。
暗闇の中で荷解きをして、まず塒を確保するためにテントを張らねばならない。小さな懐中電灯の光の中、手探りで何とか張り終えた。シュラーフを広げ荷物を中に入れると、よくもまあバイクに積めたものだと感心するぐらいの家財道具が並んだ。
焚き火の回りで談笑する10数名の仲間の所に行くが、何人かは面識あるものの半数以上は初対面のバイク仲間だった。普段はネット上のサイトで互いに意見を交換したり情報を流したりしている仲間が呼びかけて和歌山の川湯に集まったのだが、遠くは九州鹿児島や東北地方からバイクを飛ばして駆けつけるのだ。まさに酔狂、物好きとしか云いようがない集団であろう、自分を含めて・・・。その
夜は遅くまで酔狂な一団が飲んで騒ぎまくっていた。
<大人の少年たち>
翌朝、タオルを持ってぶらぶらと川に湧き出る温泉へ向かった。川原の一部を堰き止めてあるだけの露天温泉なのだが、男女混浴はもとより脱衣場などなく一枚の板塀が設えてある。その陰で脱ぐのだが、どこからも丸見えで殆ど用を成さない。水着を着て入っている女性もいるが、大抵の男連中はすっぽんぽんの素っ裸で、ことさら気にするような雰囲気でもない。水深はほんの50cmほどで、川
底の至る所から熱い湯が湧き出ている。湯は上流から流れてくる川の水が堰き止められ熱く湧き出る温水と混じって適温になっている。よく見れば、上流の方には人家があり、いくつかの集落があったりして、あまり清潔な川の水とは謂えないようだ。
適当に温まったところでキャンプに戻ると、数人で連れ立ってショート通輪に行くことになった。明るい日差しの元で見る熊野川は河面がきらきら輝いて美しい。広い河川敷の中をなだらかに蛇行する姿は地に横たわって静かに眠る龍のようだ。静かに疾走する巨大バイクの一団は、やがて熊野那智神社に立ち寄った。
長い階段を登る途中で記念写真を撮る段になって、皆一斉に股覗きのポーズをとる。結構歳をいっているオヤジたちだが、無邪気にふざけ合ったりはしゃぐ姿を見ていると、いつまで経っても少年の遊び心を忘れていないようだ。
昼食に「くじら料理」を食すべく、太地町のレストランを訪れた。メニューを見れば、3500円と5000円のコースしかない。
「よっしゃ、ここまで来たんだから、 5000円のフルコースだ!」
「え、ええっ!? そんな贅沢な・・・ま、いっか、よっしゃ、フルコースでいこっ!」
「じゃ、オレもそうするか・・・」
と言うわけで、全員5000円のくじら料理フルコースの豪華なランチを注文したのだった。クジラのはりはり鍋、そぼろ、ベーコン、百尋(腸の蒸しもの)、晒しクジラ、尾の身の刺身とクジラ尽くしの実に豪華で美味な料理だ。全員満足して、5000円が高いなどと文句を言う輩は一人もいない。
その後、潮岬を散策して奇岩の立ち並ぶ橋杭岩の所でイカの一夜干しを購い、紀伊勝浦の洞窟風呂でたっぷりと温泉を満喫してキャンプに戻った時はとっぷりと日が暮れていた。キャンプ二日目にして新たなメンバーが加わり、結局延べにして40名弱の物好きが日本各地から集まった。普段ネット上でいろいろ意見し合っているからか、初めて顔を合わせているにも関わらず旧知の仲の如く和気藹
々なのは、互いがバイクと遊びという同じ価値観を共有しているからこそなのだろう。
そもそも「遊び」とは何か。大人にとっての「遊び」は本来「心のゆとり」を意味するのだと思う。「仕事と遊びとどっちが大切か」という愚問をよく聞くが、人間が生きて行く上でどちらも大切なのである。いわば「仕事」という歯車の潤滑油が「遊び」なのだ。仕事だけやっているといずれ焼き付いてしまう。遊
びだけだとそれこそぬるぬるのだらけた生活になってしまう。適量を見極めることが大切なのだ。
だとすれば、子供にとっての「遊び」は何か。大人にとっての仕事が子供にとっての勉強だとすると、それは「知識」を得ることであり、遊びで「知恵」を身につける事なのだ。
「お利口さんだねえ。賢いねえ。」と、大人が子供を誉めるのは、テストの成績
が良かったり試験に受かった時であって、脳味噌の中に詰め込まれた一過性の知識に対する評価でしかない。学校の成績が優秀でも、一流大学を卒業しても、大人として社会に出た時、過去の知識は脳内に残存しているだろうか。社会生活に役立っているだろうか。殆どの知識は忘却の彼方に飛び去り、社会の現実の前で呆然と立ち竦むのが今の大人たちではないか。大人が生きる術の知恵を身につける「遊び」を知らないのだから、子供たちが「遊び方を知らない」のは当然のことだ。
「獅子が我が児を千尋の谷に落とす」のは「可愛い子には旅させよ」と同じような意味を持つ比喩であって、子供には自由に遊ばせて生きる知恵を身につけさせようという親心なのだ。動物の子供はじゃれ合って遊ぶ内に痛みを知り悲鳴を上げることで力の加減を知る。人間も子供の頃野山を駆け回って怪我をして痛みを知り、ふざけ合ったり取っ組み合いの喧嘩をして互いの力加減を知る。だが、
現代社会の子供はテレビゲームなどでヴァーチャルな戦いをしている内に仮想と現実を区別する判断力が失われ、現実において力の加減を知らないために相手を殺してしまう。それは子供の頃の「遊び」で知恵を身につけていないからなのだ。
<熊野から吉野へ>
一晩中騒ぎまくっていた大きな子供たちは朝になってもテントから這い出して来ない。いずれどこかでまた会えることが分かっているだけに、早々と荷造りをして出立した。早朝の熊野川流域には低く雲が棚引き、朝日を受けて川面が美しく輝いていた。広い砂利で敷き詰められた河原にうねるように流れる龍の川、棚引く雲の中から首を擡げてそのまま天に昇っていくような幻を見た。
国道168号を十津川村まで行き、425号を下北山村方面に吉野を目指した。晩秋の美吉野路は居並ぶ杉の木立で紅葉はほんの僅かだ。植林されない崖などにちらほらとハゼノキやヤマウルシの赤い彩りが映えている。峠に立つと遥か熊野連山と吉野連山が延々と連なり、遠くへゆくに従って青い峰々に一枚ずつ白い霞のベールを重ねてゆく。澄み切った秋の空の下でも光は確実に距離の演出をしていた。
下北山村の川沿いのレストランで軽く蕎麦で腹を満たすと、R169を北上する。
北山川とはいうものの山深い中を流れているにしてはいやに流域が広く穏やかな水を湛えている。どこかのダムで堰き止められてできたダム湖なのだろう。ふと下を見ると崖に沿って小さな路の跡が水面の中に続いている。その谷で人が生活していたのだろう。水の底には古からの集落が沈んでいる筈だ。各地にダムができる度に、必ず湖水の底に沈む古里の存亡をめぐって問題が起きている。古来、人は水辺に住み着いて生きてきた。山里には小川や泉があり、命の水として大切にしてきた。山の木々は天からの恵みの雨を受けて根元に溜め込み、高い山の木々も樹雨として雨露を集めていた。トチやブナ、ケヤキ、カツラなどは今でも水神様として祀られているほど保水能力の高い木々である。それらの木々は自然のダムとして山の上に満々と水を湛えていた。なのに人間はそれらの木々を切り倒し、保水能力に乏しい杉や檜を植え、水を枯らしてしまった。即ち自然のダムを壊してしまったのだ。その代わりに人工のダムを造っている。
何だか人間はすごく無駄な事をしてきたような気がする。
自然の山々で遊んでいれば自ずと水に関する知恵が付こうものだが、それらの遊びを知らない人間は水の有り難さを知らないが故に貴重な資源を失ってしまうのだ。
うねうねと続く山の小径を走りながら首を巡らす内にいろいろなことを考えてしまった。吉野の里に入るにつれて若い真っ直ぐな美吉野の杉木立が目立ってくる。秋田杉、京都北山杉と並んで日本の三大美林と言われる吉野杉だけに、綺麗に枝打ちされて整然と立ち並ぶ姿は自然とは違った人工的で幾何学的な演出をしている。本来自然界には真の直線はあり得ない筈なのだが、人工植林の杉は直線で構成された群の美として存在しているようだ。
吉野山の如意輪寺の近くに高野槇(コウヤマキ)の群落がある。ここのコウヤマキは毎年お盆の供え花として切られていたのだが、各地で絶滅しかかっており、今や日本特産の化石植物となっているために県の天然記念物として保護されている。純林としてのコウヤマキの姿はうねうねと枝が曲がり捻れて苦しみ悶えているように見える。何だか人間が苦しめている自然の姿を物語っているようだ。
下流では紀ノ川となる吉野川を渡ると、やがて大和の古の都へと道は続いてゆく。耳成山、天香具山、畝傍山の大和三山を過ぎ、飛鳥の里を行くと石舞台や数々の遺跡が点在している。古代ロマンの劇場街を通り抜けてゆく感じだ。あかべこを細い小径に走らせながらしばし心を遊ばせてみると自分が卑弥呼の時代にタイムスリップしたような感覚に陥ってしまった。のんびり走っているうちに日が傾いてきた。午後3時というのに秋の太陽は西の空に早々と帰り支度をしている。
頭の中で時間を現代に引き戻すと、西名阪道路に乗り一路名古屋を目指した。
休日でもあり名古屋高速道路もかなりの渋滞を呈していた。豊明から国道1号へと走り込むと夕闇の中に延々と赤いテールランプの行列が続いている。大人しくしずしずと歩くような速さで走っていると、後ろから同じ白のGSがやってきた。横に並んだところでシールドを上げて話しかけた。
「やんなっちゃいますねえ、この渋滞。どこまで続いてるんでしょうかね。」
「ああ、岡崎までこの状態だよ。先を急ぐんなら23号に逃げた方がいいよ。あっちなら混まないからね。」
「じゃあ、一緒に行きましょうか?」
「いやはは、家は岡崎なんだわ。裏道もないし、このまま行きますよ。」
しばらく併走した後、知立で別れて23号に向かった。確かにがら空きの道だった。一気に蒲郡まで走ったが、それから先へ行く気力は失せていた。朝の8時から走りっぱなしで夜の8時にやっと蒲郡なのだ。半日バイクに跨っていると結構疲れるものだ。へとへとになった体を休ませようと宿を探すことにした。まず駅前でぐるりと見回すと必ずビジネスホテルの看板が目に入る。そこの電話番号を携帯電話でかければいいのだが、やっかいなことに市外局番からかけなければならない。ところが看板には市内局番からしか書いていない。仕方なく辺りの通りがかりの人をつかまえて聞いた。
「すんませ〜ん、蒲郡の市外局番は何番ですか?」
「はあ? なんでだあ?」聞かれたお爺さんは怪訝な表情をした。
「あのですね、携帯電話は市外局番からでないとかからないんですよ。」
と、詳しい説明をしてやっと分かってもらえたようで、遠い過去の記憶を呼び起こすかの如く遠い目であらぬ方向を見遣りながらぽつぽつと自分の家の電話番号を口にし出した。
「0533・・24・・・」
「あ、あの、市外局番だけでいいんです。おたくの番号はいいんですよ。」
危うくお爺さんと電話番号の交換をするところだった。
看板のビジネスホテルに電話すると、予約をとって道順を聞いた。
「えっと、駅前の大通りを右に行って、ほんのちょっとしたらNTTがあるでぇ、右に入ったらすぐ見えます。」
あまり地理を理解しないまま適当に右へ行って適当な所で右に曲がったら本当に目の前にあった。
「先ほどの電話の主です。この二日テント暮らしだったもんで温かい布団が恋しかったんですよ。」
「ベッドしかないですけど、お客さん大きいから大丈夫かな?」
「脚縮めて寝ますから・・・」
確かに体を真っ直ぐ伸ばすと足首から先がベッドの外に出てスースーして冷たいことこの上ない。部屋の暖房を強くして眠ったが、結局汗だくになって夜中に何度も目覚めることになってしまった。
<塩の道>
テントでは寒くて目覚めたのだが、ホテルでは逆に暑くて目覚め、些か寝不足気味の寝ぼけ眼を瞬かせながら目覚めて間もない蒲郡の街を走りだした。朝食を仕入れる場所を探しながら走っていると意外とないものだ。というより、裏道畦道獣道ばかり好んで走るのでそういう店がないのかもしれない。巨大なバイクをちょこまかちょろちょろ走らせているうちに、浜北市を外れて天竜市に入り込ん
でしまった。この辺から彼方此方に道が枝分かれするようだ。ど・れ・に・し・よ・う・か・なとふらふら走り、結局南アルプスを縦走する国道152号を選択した。地図では途中細くはなっているものの高遠まで通っているようだ。別称秋葉街道と呼ばれるだけあって秋の風に乗って枯れ葉が吹雪のように舞っている。
道を掃いていたお婆さんが箒を片手に降りかかる枯れ葉を払いながらつぶやいた。
「こりゃいくら掃いてもキリがないわや。」
確かに、見ていると一掃きする後から後から何倍もの落ち葉が路面を埋め尽くしている。まるで砂に書いたラブレターを波が洗い消すかの如くに。そして云わなくてもいいことを云ってしまった。
「落ち葉のラブレターやね、掃かなく消える恋心ってね。」
「はあ? 何のことかわからんがね。」
そう、文字に書けば「掃かなく」と「儚く」とが洒落になっているのだが、言葉で交わす駄洒落は通じなかった。ヘルメットの上からポリポリ頭を掻きながら赤面した巨大なオッサンはそそくさと落ち葉を踏み散らして走り去った。
152号線は静岡と長野の県境で行く手を失っていた。真新しい草木トンネルが出来てはいるものの「125cc以下は通行不可」とある。ならばもっと小さいバイクや農耕機などが通れる道があるはずと、トンネルの横から峠道に入り込んだ。ガレ場の続く荒れた小径がくねくねと峠に向かって登っている。やがて行く手を「塩の道」と大書した石碑が遮った。
昔は三河あたりでとれた塩をロバや馬の背に乗せてこの秋葉街道を運んだのだろう。行き先は塩尻であり松本だったのだ。今でも松本には「塩祭り」という祭事が残っている。その石碑の奥からは人一人、馬一頭の通れる幅のごく狭い小径が山奥に通じていた。とてもバイクが通行できるものではない。仕方なくUターンしてトンネルを行くことにしたのだ
が、駆け下りながらトンネルを通れない人たちはどうしているのかという疑問が脳裏を過ぎった。生活道路であるならば「125cc以下は通行不可」などという規制そのものが道路の意味を成さなくしている。一体誰のための道路なのだろう? しかも無料なのだから尚更規制の意味を成さない。こんな山奥に来てまでも行政の矛盾に直面してしまった訳である。広く快適な草木トンネルの中には小さいながら歩道も設置してあった。ますます疑問符が頭の中を飛び回り始めた。
秋の青空が谷間を通る道からはV字カットされて見える。両脇に迫る山裾は紅葉で艶やかに彩られている。よく整備された道を気持ちよく駆け抜け地蔵峠の麓までくると、またもやトンネルが口を開けていた。しかも、その矢筈トンネルは152号を行かずに飯田へ下りてしまうのだ。そこで、ようやく朝昼兼用の蕎麦を食べるべく峠の茶屋の暖簾をくぐった。その蕎麦屋は農家の造りそのままで見上げると黒光りする太い梁が渡っており、座敷に切った囲炉裏の中には炭火がいこっていた。
「すんませ〜ん、天ざる蕎麦大盛りでぇ〜。」
「は〜い、これから打ちますんでちょっと時間かかりますよ〜。」
「いいですよ。ところで、この先地蔵峠には行けますか。」
「ああ? あのバイクでかぁ。もう雪があるかもしれんよ。」
「え゛っ、雪!? じゃ、やめた。素直にトンネルくぐろっと。」
ガレ場の林道で雪に通せんぼうされたら堪ったものじゃない。
やがて出てきた蕎麦は冷たくしこしこと歯触りのいいなかなか旨い蕎麦だった。
愛想のいいおばさんに見送られて胃袋を満足させたオッサンはこれまた真新しい綺麗な矢筈トンネルに突入していった。ほぼ直線のトンネルを抜けるとそこは雄大な伊那谷を見渡せる高台に出る。遥か彼方には木曽の山々が峰に雪を頂いている。透明な空気を通して雪の白さと空の青さが際だって見えた。
天竜川を渡る橋の手前で畑の中をゆく小径に入り込んだ。国道や県道はあまり走る気がしない。産業道路を行くより生活道路を行く方がいろいろな風物が見られて面白い。通りかかる農家の軒先には沢山の大根や皮を剥いた柿が簾のように吊してある。来るべき厳しい冬に備えて保存食を作る昔からの風物である。子供が棒きれを持って走り回っている。木に登って黄色く熟した柿をもいでいる。
「どうしてあんな沢山の柿を残してるの? 全部採っちゃわないの?」
「冬になって食べ物がない小鳥さんたちが困るでしょ? だから、残してあげるんだよ。」
人間だけが生きているのではない。ありとあらゆる生き物が互いに助け合って生きているのだ。里に残る黄色い柿の実やたわわに実るナンテンの房を見て、人の温かい自然への思いやりを見たような気がした。
柿と栗と松茸が寒空の下で話し合っていた。
柿「おい、栗よう、おまえさんはいいよなあ、暖かそうな着物を着てよう、オレなんか見ろ、薄皮一枚で寒いのなんの。」
栗「なあに、今だけだよ、オレも段々太ってくるとそのうちこの毬からはじき出されちまうんだよ。」
松茸「おめえら、何かしら着物を着てるからいいようなもんだい。オレなんか見ろい、褌もしちゃいねえよ。」
栗「じゃ、はじき出される前にそろそろ行くわい。じゃあな。」
松茸「おいおい、どこに行くんだよ。」
栗「このまま川の流れに乗って海に出て、それからウニになるんだわさ。」
柿「じゃあ、オレの葉っぱたちも連れて行ってくれよ。みんな川や海に流れて魚になるんだからな。」
山や森の落ち葉は川に流れて海に運ばれ、その養分で植物プランクトンや動物プランクトンが繁殖し、小魚や貝の栄養となる。海を母とするならば山や森は自然の命の父となる。海を守るには山や森を守らねばならない。
遊びの心はいつしか心の遊びを生み出している。そしてそれらは知恵となって育まれていく。
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